ケアとは何か 4 <「健やかなるときも、病めるときも」>

あおばさんやさとえさんの日常について具体的なお話を伺うことで、そのパートナーの方たちの思いも気になっていることは前回書きました。


最初にコメントを読ませていただいた時には、思わず「健やかなるときも、病めるときも・・・」というあの誓いが心に浮かびましたが、すぐに「いやそんな美談のように受けとめてはいけないのでは」と思い直しました。


なぜそのような自制心のような気持ちが働いたかというと、上野千鶴子氏が書かれているようにそれは問題を「私的領域」にしてしまうことであり、「家族の失敗」でさえもその当人たちの問題にされてしまう可能性があるからだと思いす。


<「健やかなるときも、病めるときも」>


この誓いも決して究極の理想を表したものでもないことを知ったのは、20代の頃に夢中になって読んだ三浦綾子氏の本でした。


終戦の時代の変化の中で生きる気力を失っていた三浦綾子氏ですが、そんな彼女をキリスト教に導いたのが前川正氏でした。結婚を意識する関係になった頃に、その前川氏が結核で亡くなります。
さらに三浦綾子氏も結核に冒されて寝たきりの生活になり、回復や将来の希望も何もかも失った時に三浦光世氏と出会います。
寝たきりの三浦綾子氏を定期的に見舞い、「必ずなおりますよ」と精神的な支えになっていったのでした。


おそらくなおらなくても、三浦綾子氏が亡くなるまで心の支えとなったのではないかと思いますが、世の中にこんな男性がいてこんな男女の関係があるのかと、月並みな言葉ですが「生きるというのはすばらしいな」と感動したのでした。


ただ、ここまでの生き方を全うするのには精神的に研ぎすまされて行くような何かを自分に課す必要がある、そんな難しさも感じたのでした。


三浦綾子氏と光世氏>


手元に三浦綾子氏の本がないのですが、数年ぐらいほぼ寝たきりの生活を経て奇跡的に回復したと記憶しています。ただまだ体力も戻っていない三浦綾子氏でしたが、光世氏と1959年に結婚して小さな家での新たな生活が始まります。


まだ治療にもお金が必要でしたが、それは光世氏の収入から支払われていました。
健康保険が使えた時代にはなっていましたが、結核の新たな治療は現代では高額医療の感覚ではないかと想像します。


そうした生活費と治療費を光世氏に全面的に依存していることを心苦しく感じていた三浦綾子氏は小説に挑戦、1961年に作品が入賞したのを初め、1963年には当時1000万円という大金の賞金懸賞のついた公募に「氷点」が入選したのでした。
その懸賞の一部を使って小さな商店を始めて、光世氏への経済的負担を減らそうとしたのでした。


パートナーとの関係が経済的に弱者であれば非対称の関係になりやすいですが、反対に、特に女性側の経済力や名声が強くなれば、男性の立場であれば心穏やかにはいられない関係にもなりやすいのではないかと思います。


「富めるときも、貧しいときも」、これを愛し敬うこと。
移ろいやすい心に支配されやすい人間にとって、これはどんなに難しいことでしょうか。


その後、三浦綾子氏は数多くの著書を出版し、講演活動など多忙な日々となります。結核による死は免れましたが、さまざまな病気を繰り返し、最後の方の著書は口述したものを光世氏が筆記して原稿にしていたようです。


なぜ三浦綾子氏と光世氏は、まるで誓いの言葉を全うしたかのような人生になったのだろう。
そんなことを思いながら、あおばさんやさとえさんのパートナーの方々はどんな方たちなのだろうと気になっています。






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