事実とは何か 40 <防災の日は人災の日である>

在日韓人歴史資料館で購入した「写真でみる在日コリアンの100年」という本では、「第3章 関東大震災の受難」の冒頭に次のように書かれていました。

 9月1日は日本の防災の日である。しかし、在日にとってこの日は人災の日である。在日100年の歴史を考える上で朝鮮人というだけで街頭であの世送りになった震災時(1923年9月)の受難は避けて通れない。

 殺人事件では、いつどこで誰が、誰をどのように殺したかによって、量刑が決まるが、東京・横浜などに住んでいた朝鮮人2万人のうち6000人以上とされる殺人事件の真相は未だに闇の彼方である。日本当局は、「震災の混乱に乗じ朝鮮人が放火し井戸に毒を入れている」という奇怪なデマが流れたことによる偶発的事件としている。しかし、組織的にデマを流したのは官憲であり、戒厳令による出動軍隊の虐殺行為に民兵化した自警団が同調した国家的民俗犯罪であることは河目悌二(推定)の絵(下の絵参照)であきらかである。関連の写真資料もみな戒厳令下の残虐な物理的暴力の結末そのものである。

 問題はいまだかつて日本当局がこの事件の調査をしたこともないし、謝罪をしたこともないことである。
 侵された朝鮮人の人権や流言飛語流布の汚名はいまだはらされていない。名誉回復はなされていない。歴史に時効はない。真相は明らかにされなければならない。




<白を黒に、黒を白にさせられた時代>



この関東大震災から2年ほど後に生まれた父は、陸軍幼年学校から士官学校終戦を迎えました。公職追放で経済的にも困窮したようですが、何よりも、それまで一途に信じていたことを見失い、自分を立て直すことが大変だったようです。


最近になって初めて、若い頃から坐禅の修行をしていたのは自主的にその道を選んだのではなく、終戦直後にイライラしていた父を家族が見かねて近所のお寺に頼んだ話を聞きました。


その頃の社会の雰囲気を知る方が、「あの頃は白を黒に、黒を白へと変えさせられた時代でしたから」とおっしゃっていました。
たしか三浦綾子さんの著書にも、終戦当時小学校の教員だった彼女が、教科書を黒く塗りつぶさせられたことで、「今まで間違ったことを教えて来たのか」と精神的に病んでいったことが書かれていました。


三浦綾子さんの本を読んだのは1980年代、私が20代の頃でしたが、当時は「終戦の頃」というのは私にすればずいぶん昔の話のような気がしていました。
ところが、わずか私が生まれる十数年ぐらい前までの話だったのですね。


明治から大正そして昭和へと突き進んでいた、社会の狂気のようなものからふと目を覚ましたら、自分がしてきたことも見て来たことも、なにが現実なのかわからなくなる。
昨日まで正しいことと信じていたことが、ことごとく覆される。


改めて、父はそういう時代に生きていたのだと思いました。


父に対して「慰安婦問題をどう思うか」と問いつめた時、「そんなことはどの国もやっている」と答えた父を、私は長い間許せなかったことを以前書きました。


今、よくよく考えると、父は「そんな事実はなかった」とは否定していなかったのです。
「していた」ことは認めたのだと思います。
ただ、あの狂気のような時代から自分をようやく立て直して来た父にとっては、まだまだ真正面から認めがたいことがたくさんあったのかもしれません。


そんな父の苦しさの中で、あったことをなかったことにはしなかったことに、今は別の尊敬の念があります。


関東大震災からさらに二十年ほどたった終戦の頃に、デマや殺害に加担した人たちはどのように気持ちを立て直そうとしたのだろう。
そんなことが気になりました。


そして、「防災の日は人災の日でもある」ことを忘れないようにしようと思います。




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