「健やかなときも、病めるときも」という誓いが現実にはとても難しいことは、両親をみてもわかります。
認知症になった自分のパートナーを24時間、心身ともに張りつめた状態でケアすることになった母は、私たち子どもの前でも父を怒鳴るようになりました。
父はいつも緊張しているようで、まるで従属しなければいけないことを感じているかのようでした。
まだ身の回りのこともそれなりに出来ていた時期で、父の方から家事を手伝おうとしても、母のほうが「どうせ失敗するから」「余計手がかかるからしなくていい」と拒否されてしまい、父は何もすることのない状態に追い込まれているようでした。
こちらの記事で、父が1日に何度も外に出るのを「『気持ちがいい』と楽しそうでしたので、父にすれば散歩であって徘徊ではなかったのかもしれません」と書きましたが、本当は父は少し家から離れたかったのだろうということはずっと感じていました。
不安を強く感じたが故の徘徊であったと。
でも母にはそのことは言えませんでした。
「お父さんにお皿洗いとかできることをしてもらえば、お父さんもうれしいのでは」と暗に伝えても、「私たちの世代は夫にそんなことをさせていはいけないと言われて来たから」と受け入れません。
「デイケアやショートステイを利用して、お母さんもひとりになる時間をつくればいいと思う」と話しても、「お父さんがきっと馴染まないわよ」と行かせようとしませんでした。
<支配・従属関係ができやすい>
母の負担が減るだろうと思って提案したことがことごとく却下されるのをみて、母はそういう提案を受け入れられないというよりも、ケアの支配・従属関係を手放したくないのではないかとさえ思いました。
職場の同僚も親の介護に直面している世代が多いのでいろいろと話を聞くのですが、故郷でお嫁さんが両親を見てくれていて大変そうだからとデイケアやヘルパー派遣などを勧めても、やはり断られるようです。
「私の介護が不十分と思っているのか」と嫌な顔をされるようです。
その裏には「ケアをしている私」に全存在をかけているかのような心理があるのかもしれません。
「自分がいないとこの人のケアは成り立たない」
それが母の「献身的」なケアを支えているのであれば、それは支配・従属関係を作ってしまいます。
そして、父の「(不適切な)ケアされることを強制されない権利」が守られなくなります。
それがこちらで紹介した文につながるのではないかと思います。
ケアの受け手と与え手の関係は、非対称なのである。なぜなら相互行為としてのケアの関係性から、ケアの与え手は退出できるが、ケアの受け手はそうではないからである。
この非対称な関係は容易に権力関係に転化する。
このままでいけば母から父への「高齢者虐待」「心中」、いろいろな最悪のシーンが浮かんできました。
母に代わって私や兄弟がケアをすることになっても、父に感情をぶつけ支配する日が早晩くるだろうと思いました。
最終的に父と母は別々の場所で残された人生を生きることになりましたが、お互いに距離をおき、介護の専門職にケアを委ねた分、気持ちが穏やかになりお互いを懐かしく感じているようです。
もちろん全てを納得できたわけではないと思います。
でも「家族の失敗」というのは決して別離をさすのではなく、少し社会的問題と言う視点と第三者の介入があれば失敗せずにすんだことが、「私的領域」でなんとかしようとしたことによる人間関係の崩壊といえるのではないかと私自身はそう考えることで自分を納得させています。
「ケアとは何か」まとめはこちら。