これまでご紹介してきたようにさとえさんやあおばさんからコメントをいただいたことで、産後に排泄トラブルを抱えることになった方々のやり場のない思いを知る機会になりました。
それを読みながらもうひとつ気になっているのが、パートナーの方々のことです。
どのような思いで相手のこの苦難を受け止め、支えていらっしゃるのだろうと。
<日常生活動作の機能が失われる>
私の父が認知症になったあと幸いにも現在に至るまで父は排泄をひとりでできますが、たまに失禁があったようです。
グループホームに入る前はふだんは母が一人で父の身の回りの世話をしていましたが、日常生活動作に関して早い時期に失ったものが更衣でした。
着替えがどこにあるのかわからない、着衣の順番、あるいは季節に応じた衣服を自分で選んで着るといったことができなくなりました。
父のタンスには大きな文字で「下着」「靴下」などと書かれた紙が貼られました。
その次が食事でした。
何をどう食べてよいのかわからなくなったようで、一緒に外出をしても自分で食べたいものを選ぶことをしなくなりました。
母と同じメニューを選び、母が食べているのを見てから食べ始ていました。
またどれだけの量を食べるかということがわからなくなり、目の前にあればあるだけ食べてしまうようになりました。
ひとつひとつの機能が失われて行くたびに、「今までできていたことなのに情けない」と母は失望と悲しみで苛立ち、でもまたお互いに適応していく方法を模索していました。
父が認知症になってから私もできるだけ実家に帰るようにしていましたが、母の愚痴の聞き役に徹していました。
しだいに父へのきつい言葉や叱責が増えてきたので、少し母と父を離そうとショートステイやデイケアの利用を勧めました。
でも最初は、いろいろと理由をつけて父を外に出したがりませんでした。
ある時期からようやくデイケア利用を決め、ケアマネージャーさんたちと出会い、また同じような家族の仲間と話をすることで母は救われたようです。それまで一人で考え込んでいたことが多かったのが、どんどんと良い方法を聞き出して取り入れるようになりました。
介護保険が始まった後で、本当に良かったと思いました。
介護の中では介護を担う家族もまたケアの対象である認識がすでに育っていたからです。
<ケアの当事者は3人>
こちらの記事で、産後の排泄トラブルを抱えた場合にはケアの当事者は、産後のその母親と赤ちゃんの二人であると書きました。
でもそれでは、パートナーやパートナーに代わるご家族に関しては「私的領域」のままになってしまいます。
さとえさんやあおばさんのような場合、パートナーもまたケアの対象だと思います。
上野千鶴子氏の「ケアの社会学」(太田出版、2011年)の中にもこう書かれています。
9章「誰が介護を担うのかー介護費用負担の最適混合へ向けて」では、ベストフ、サラモン、京極、エスビンーアンデルセンらの先行研究を批判的に検討した上で、官/民/協/私の四元図式を提示した。官/民/協/私は、国家/市場/市民社会/家族のセクターを、わたしの用語で言いかえたものである。先行の論者のうち、ベストフ、サラモン、京極らは国家/市場/市民社会の三元図式に、エスビンーアンデルセンは国家/市場/家族のそれぞれにとどまる限界を持っていた。福祉は「補完主義の原理で成り立ってきたが、その際、「市場の失敗」を補完するのが国家であり、その「国家の失敗」を補完するのが「市民社会」であると考えられてきた。
ここまでは、私には社会学の知識がほとんどないので細かい議論はよくわかりません。
ただ、次の部分はとても納得がいきました。
「家族の失敗」はそれより先に前提とされていたが、そこでいう「家族の失敗」とは、「失敗した家族」すなわち死別や離別で家族から見離されたひとびとだけを指していた。だからこそ福祉の対象は、弧老やシングルマザーなどに限定されてきた。逆に家族がそろっていさえすれば問題ないとみなされてきたのが、家族依存の「保守主義的福祉レジーム」だが、その家族がとっくに空洞化していることを、2010年にメデイアを賑わした「消えた高齢者」事件は明らかにした。近代家族論があきらかにしたのは、まともに見える家族そのものがケアという重荷を負った「積みすぎた方舟」(Fineman 2004=2009)だったことである。歴史的に見れば、「家族の失敗」は織りこみずみだった。ただ政府と研究者がそれを認めなかっただけで。
高齢者介護だけでなく、周産期医療でもこの「家族の失敗」に遭遇します。
たとえば赤ちゃんが脳性麻痺で家族の介護が必要とわかったあとに、父親がそれを受け止められなくなり離婚になった場合もあります。
「ケアを担う人にもケアが必要」という視点があれば、もう少しこの父親の気持ちを支えられたのではないかと思います。
「産後のトラブルを考える」まとめはこちら。