行間を読む 31 <「育児」という言葉>

「育児」とか「子育て」という言葉になにかしっくりしない感覚があります。
かといって他に日本語では表現しようがなくて、日常ではこのどちらかを使っています。


たとえば周産期ケアの中でも、産後の看護目標の中で「育児技術の習得ができる」といった使い方をします。
私はどちらかというと「(お母さんが)新生児のケアができるようになる」「乳児のケアができるようになる」という表現がよいと思うのですが、「ケア」という言葉も「『ケア』の語源と意味」で紹介したように、いまだに明確な定義がない言葉のようです。


そしてもともとは「『育児』に限定されていた用法が、介護・看護へと拡張解釈されていく」とあるように、日本語に訳す時には「育児」とされてしまうので、なんだか違うなと。


ずっと感じているこの「育児」という言葉の使いにくさは何故だろうと、考えています。


<「育児」の定義のようなものはなさそう>


日本の中だけでも年間100万人の赤ちゃんが生まれて育っていくためには、その基本的欲求に対する援助(ケア)が行われているのですから、それを「育児」と表現するのであればすでに定義があるのだろうと思っていました。私が不勉強なだけで。


でもざっと検索してみても、Wikipedia育児ぐらいしかまとめられたものがみつかりません。
専門用語でもないのででょうか?


Wikipediaでは以下のように説明しています。

育児(child care)とは、乳児期の世話・養育をすることである。
乳幼児とは乳児と幼児を指し、小学校に入学する前の子供の総称である。育児には様々な段階があるが、学齢後は子育てを参照。

「育児」は乳幼児期、「子育て」は小学生以降という区分があるのでしょうか。でもそれも社会に認知されているとも思えないですね。


なるほど、ケアは「乳児期の世話・養育をすることである」という表現のほうがすんなり受け止められます。
でもなぜそれを「育児」というと、同じことを指しているようでそうではない居心地の悪さを感じるのでしょうか。



<育児は母乳から始まる・・・のか>


出産後のお母さんに赤ちゃんの世話を教えるのに、私自身が育児は母乳から始まるかのように、新生児の様々な変化もみえずにおっぱいのことばかりに目を向けていました。


それで「育児は母乳から始まる」かのような関わり方はもうしたくない、と思いながらこのブログを書いているのですが、このWikipediaの「育児」の「概要」以下の部分を読んで、もしかしたら育児という言葉は「母乳」と密接に関わって広がった言葉なのかもしれないと感じました。


「愛情」では、「強い『きずな』幻想」で紹介した、ケネルとクラウスの「ボンデイング」がそのまま使われています。


「食物を与える」ではまずは母乳を与えることが推奨されて、以下のような説明が書かれています。

産婦人科の)島岡昌幸・池下育子ら監修のサイト『妊娠・育児第百課』も母乳育児はママと赤ちゃんの間に強い絆をつくりあげていく、オキシトシンというホルモンは、母親に幸福感や恍惚感を与える作用が、そして母乳を産生するプロラクチンというホルモンには母親に赤ちゃんを保護したいと思わせている作用があるそうだ、とし、母乳は母性を育む一番の近道とする。


これらの説明では、「育児」は母乳を飲ませない女性や男性は範疇外になってしまいます。


「育児」の説明に書かれているこれらの表現をみるにつけ、育児とはまだ定義もできないまま漠然と広がった言葉であり、そして「育児」と「ケア」は異なるものをさしているのだと思います。



<「育児」はケアとは違う>


「ケア」の場合には、「ケアする」「ケアされる」と双方向の使われ方ができます。


ところが「育児」の場合は、「育児される」とは使わないのではないでしょうか。
つまりあくまでも「育児する側」の視点しか表現されていない言葉なのだと思います。


ところが「ケア」には、ケアの人権として「ケアすることを強制されない権利」「(不適切な)ケアされることを強制されない権利」という受ける側の視点が含まれています。


これが大きな違いではないかと思います。
そして「育児」という言葉に違和感を感じる正体ともいえる部分です。


「育児」という言葉自体が「母乳を与えること」「母性」「絆」といったあたりと密接につながって広がった可能性があること、そこには新生児や乳児の「ケアの人権」の視点がなく育児する側の視点が優先されていること、そしてさらに「母乳育児」という言葉を生み出した。


そのような流れがあるのかもしれません。





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