目から鱗 6 <失敗学>

前回の記事の最後の部分で「失敗に学ばない」という言葉を使いました。


日頃、なんとなく「失敗に学ぶ」とか「失敗に学ばない」という表現を使っています。
ところが、本当にその失敗について学問があり学会があることを知ったのは、2011年3月の福島原子力発電所事故の直後でした。
たしか、菊池誠大阪大学教授のtweet失敗学会を知ったと記憶しています。


あの東日本大震災原発事故から書いたのが「災害時の分娩施設での対応を考える」のシリーズです。
その中の「災害時にどのように情報を得るか」で書いたように、当時、信頼できる情報源として菊池先生のtweetがありました。


なぜ信頼できたかというと、その記事の最後の部分に書いた2点です。

・気持ちの部分を切り分けて書かれた情報である
・間違った情報を流した場合には訂正をしていること


私からすれば物理学者といえば放射線の知識に関しては雲の上のような存在だと思うのですが、当時、菊池先生はご自身がわからない事ははっきりわからないとし、間違った情報であればあとで訂正されていました。


わからないことはわからないとすることは科学的な姿勢であることを、震災前にニセ科学という言葉とともに知ったことで、信頼できる情報とはどういうものか混乱せずにすみました。


そして「失敗学会」の話題を知った時に、今回の原発事故は取り返しのつかない大事故であるけれど、必ず教訓が活かされる土壌があることに安心できたのでした。
医療も同じく失敗に学び発展してきたので、すんなりと理解できました。


ただ社会の多くの人にはその安心感が共有されず、不安による混乱が今も続いていることに、「失敗学」というのは常にその責任を負う立場の人以外にはなかなかわかりにくいものなのかもしれないと感じています。


<失敗学とは>


Wikipedia失敗学にはこう説明されています。

起きてしまった失敗に対し、責任追及のみに終始せず、(物理的・個人的な)直接原因と(背景的・組織的な)根幹原因を追求する学問。

失敗に学び、同じ愚を繰り返さないようにするにはどうすればいいかを考える。

「愚」というと語弊がありそうですが、医療事故のように予測不能な不確実性も含みます。


「原因追及」「失敗防止」「知識配布」。
それは「医療安全対策について思うこと」で書いたように、1990年代に入って、現場でヒヤリとしたことやミスがインシデントレポートで集められ安全対策がつくられるようになったリスクマネージメントそのものです。


医療というと「白い巨塔」と重なって見えるように、原子力発電所もまたなにか陰謀論が渦巻く強大な組織のように感じてしまうことでしょう。


ところが、そこではむしろリスクマネージメントという失敗学が浸透している。
それは外部からみたらわかりにくいのかもしれません。



<失敗学の視点が少な過ぎる出産の世界>


周産期医学は、どのタイミングで医療介入をすれば母子ともに安全に分娩を終える事ができるのかという究極の目標にむかって、そうした失敗学が基本になっています。


ところが「出産」となると、なかなか失敗が活かされなくなってしまいます。


前回の記事のように、アンナさんが自らの経験から「バースプランというのは矛盾した言葉」であるという本質に気づくまで、自分の失敗に向き合うことでどれだけ葛藤があったことでしょうか。


そして自らの失敗を社会に伝えて再発防止に役立てて欲しいと声をあげても、社会はまっすぐには受け止めてはくれません。
イギリスのように基準がしっかりしていれば、助産師全てが新生児蘇生のトレーニングを受けていれば・・・とあさっての方向になってしまうのです。


日本でも、琴子ちゃんのお母さんが声を上げました。
「助産院は安全?」と。


助産師教育に失敗学が根付いていれば、「お産は終わってみないと正常かどうかわからない」それが答えであると理解できたはずです。
そして、もう助産所や自宅で助産師だけで分娩介助をする時代ではないと。




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