助産師だけでお産を扱うということ 5 <母子健康センター助産部門>

産後ケアの話題から少し離れて、助産婦だけで分娩を担っていた母子健康センターの助産部門について考えてみたいと思います。


「日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃」で紹介した伊関友伸氏のブログで、丹波地方の母子健康センターについて書かれた部分を再掲します。

自宅分娩以上の安全を求め昭和30年代半ばから相次いで助産婦による母子健康センターを開設。自宅から病院へと分娩が移った当初はセンターの利用者が多かったものの事故がおきるなど、より高い安全性を求め、診療所や病院など医師がいるところで出産するようになり、10年から15年ほどでセンターの助産業務は休止された。
「産科医ら意見交換『安全なお産』考える 丹波『未来新聞』」より

実は私自身、昨年この記事を書く頃はまだ、「助産師だけで正常経過の分娩を扱う施設」という視点だけで母子健康センターの助産部門をとらえていました。


今回、長野県や岩手県の母子健康センターの資料を読む機会があって初めて、母子健康センターの助産部門というのは貧困や地域の文化背景から極めてハイリスクな出産を扱わざるを得なかった施設だったということに気づきました。


<母子健康センター助産部門の矛盾>


こちらの記事で紹介した「長野県における母子健康センターの歩み ー塩田母子健康センターの事例を中心にー」(湯本敦子氏、信州大学医療技術短期大学専攻科、2001年)に、母子健康センターの変遷が書かれています。抜粋しながら引用します。

 当初母子健康センターは主に助産施設に恵まれない農山漁村地域での自宅分娩や無介助分娩の解消を主眼とした、助産部門を中心とするものであった。センターは地域に喜びをもって迎えられ、特に助産施設がなかった地域の女性たちには非常に好評を博した助産部門の助産はその地域で開業していた助産婦たちが担当した。

「特に助産施設がなかった地域」がどのような地域であったか、長野県塩田地区に関しては詳細は書かれていませんが、岩手県「母子健康センターのあり方」(昭和50年)をあわせて読むと、それは妊産婦でも栄養状態が悪く、過重労働を強いられている地域であり3割もの妊婦さんが妊娠中毒症であるという地域です。


そして医療が必要な状態であっても医療機関にかかることができない背景(貧困や地域の風習など)が無介助分娩の理由でもあり、そういう地域の文化を尊重しつつ安全な出産を受け入れてもらうための地道な啓蒙活動に長い時間をかけていたことが岩手県の資料に書かれています。


長野県と岩手県の資料を読むと、当時母子健康センターを開設しようとした助産婦は、無介助分娩をなくし、少なくとも助産婦が立ち会うようにすること、そしてリスクがある妊産婦は医師のいる医療機関へつなげること、その2点を使命とされていたのではないかと思います。


けれども妊娠中毒症が10〜30%を占めるハイリスクの多い地域は、医療機関にかかることのできない貧困や郡部地域でもあったわけです。


リスクを抱えていても何とか母子健康センターで受け入れなければ、無介助分娩になり得る産婦さんを受け入れてきたのではないかと思います。



前述の湯本敦子氏の論文では以下のように書かれています。

その後センター数は全国に増えていった。しかし、生活水準の向上、医療の進歩、交通の発達など社会の情勢が大きく変化していくのに伴い、いくつかの反省が起こっていた。

すなわち母子健康センターは単なる助産施設ではなく助産事業は母子健康管理の一部であること、助産部門の料金を適正化する必要があること、またあまりにも僻地対策的な考えが強かったためかえって利用困難なケースもあることなどであった。

リスクの高い妊産婦こそ医療機関での妊娠・分娩管理が必要であるのに、リスクの高い妊婦が多い地域に助産婦だけの母子健康センターを作る矛盾を受け入れざるを得ない時代であったということだと思います。


<母子健康センター助産部門の終焉>


冒頭で紹介した伊関友伸氏のブログには以下のように書かれています。

助産婦さんが医師を呼んだが助けられないことがあった。助産婦さんは大分苦情を言われ、気の毒だった。
事故をきっかけに利用するする人も減り、常勤の医師もいないので、役割が終わったとして町がセンターを閉めてしまった。

湯本敦子氏の論文では、塩田母子健康センターが閉鎖された理由が書かれています。

上田市塩田母子健康センター運営審議会の答申書によると、廃止理由には、1.入所者が激減しており、少子化と高度医療設備を備える医療機関での出産傾向が強いため、入所者の増加が見込めないこと、2.上田市内には上田市産院、産婦人科4件があること、3.助産婦の高齢化と若い人材確保困難など、今後の運営が困難であることがあげられている。

塩田母子健康センターの助産部門は1993(平成5)年に閉鎖されました。


この時代背景には、周産期救命救急医療の進歩とシステムの整備が格段に進んだことがあるのではないかと思います。


「事故」というのは、産科医療が整備された地域や整備された時代に生きる人が思い浮かべる医療事故とも異なり、ハイリスクを助産婦が扱わざるを得ない矛盾を抱えた、母子健康センターが必要な地域ならではの事故だったのではないでしょうか。




助産師だけでお産を扱うということ」のまとめは「助産師の歴史」にあります。