圧死予防のリスクマネージメント

今朝は、起きたら体中が痛いです。
特に肋骨とか背骨のあたりに、息をすると何とも言えない違和感がありますし、両足のふくらはぎもあちこちが痛みます。


昨日、夜勤明けで乗った電車が原因です。


昨日の朝、出勤してきた他のスタッフから、電車の混み具合が尋常ではなかった話を聞いていました。
私はもう家路につくだけだから、もし駅がまだ混んでいるようならどこかでお茶を飲んで時間をつぶして電車がすくのを待つつもりでした。


10時過ぎに勤務先の最寄りの駅に到着したら、それほどの混雑でもなく、到着した電車もまだ180%程度の乗車率でしたので、ダイヤは乱れていても雪による混雑は収拾したのだと思いました。


ところが、その電車の終点までの十数駅の間、降りる人はいますがそれ以上にホームで待っていた人が乗ってきます。
数駅ぐらいで「電車が揺れるたびに斜めになって身動きがとれない」乗車率250%を越え始めた感じがありました。


乗るのをあきらめた人をおいてその電車は次の駅へ向かいましたが、次の駅ではやっときた電車に何とか乗ろうという人たちがまた少しずつ乗ってきます。


みんなお互い様なので、誰も無言のまま少しずつ詰め合って、「もう乗れる余地はなさそう」という車内にまた数人ぐらいが乗ってきました。


これぐらいなら朝晩のラッシュアワーでよくあることだからと、網棚の棒をつかんでなんとか足を踏ん張っていました。


乗ってから10駅ぐらい過ぎた頃から、つり革に近い場所に立っていた私や他の乗客は、座席に座っている人に覆い被さるような感じで、窓の方へと前のめりの姿勢のままになりました。


ホームで誘導している駅員さんが「もう少し中程へお詰めください」と案内している声に、さすがに「もう無理です」とあちこちから悲鳴のような声があがり始めました。


もしもう1人乗れたとしても、それは、反対側に立っている人が「立っている」状態ではなく「倒れる寸前」の姿勢で押し込まれていることは見えないのでしょう。
むしろつり革につかまらずに通路に立っている人のほうがまっすぐに立てますし、揺れた時にもお互いがクッション役になっているので、身を任せていればよい感じです。


その重みを全部受け止めているのが、このつり革に近い所に立っている乗客で、「私の力が尽きたら、背後にいる何人もの人がバランスを崩すだろう」という責任感のようなものでなんとか踏ん張っていたのでした。


普段は20分ほどの区間でしたが、徐行のために1時間ぐらいかかり、その間ずっと他の乗客の重みを受け止めた結果が、今日の全身の体の痛みです。


<圧死とは>


電車通勤をしていると、悪天候地震のあとに激混みの状況はしばしば経験するのですが、昨日は初めて圧死の恐怖を感じました。


数ヶ月前にも、早朝の地震のために朝の通勤時間帯のダイヤが乱れて、立錐の余地がないほどの乗車率でしたが、一度運転が再開されると徐々に運行本数が増えたので、昨日ほどの混雑でもありませんでした。


他にも台風の時に入場制限がされたこともありますが、天候の回復とともに2〜3時間ぐらいで通常に近い状況に戻ることにいつも感心と感謝の、首都圏の鉄道です。


おそらく、雪というのはその点、速度制限と間引き運転の時間が長引くため、10時台でもあれだけの混雑する区間が出てしまったのだろうと思います。


電車内で圧死するレベルの乗車率はどれくらいなのだろうと検索していたら、「クール・スーサン」というサイトの「戦後医療史」に「乳児圧死事件」という記事がありました。

誰もが生きていくのに精一杯だった時代、昭和20年12月19日、東京・山手線の超満員の電車の中で、母親に背負われた生後29日の乳児が圧死する事故が起きた。母親は長男の手を引き、赤ん坊を背負い、山手線で新橋から目黒までスシ詰めの電車に押し込まれ、帰宅した時には赤ん坊はすでに死んでいた。


警察は「注意していれば死なせずにすんだはず」と、乳児の死を母親の過失として東京地検に送検した。このことが朝日新聞で報じられると、大きな社会問題として国民の関心を呼んだ。


たとえ電車が満員であっても、託児所もない現実を問わずに母親の責任を問うことはできないとする意見。むしろ過失は鉄道当局にあるとする意見、母親の非常識を責める発言、このようにさまざまな意見が新聞社に寄せられた。


この母親は、病人の世話をしながら2人の子どもと借家住まいであった。借家からの立ち退きを迫られ、そのことを父親に相談するため、乳児を背負い山手線に乗ったのである。


同様に、電車の混雑のなかで圧死する事件が日本各地で起きている。20年12月9日、高崎線上野行きの列車の中で駅員が人波に押され圧死。22年5月16日には、大阪の天王寺と東和歌山間の電車で10数人が負傷、1人が圧死している。


戦後直後の交通事情は最悪の状態であった。空襲で車両は焼かれ、燃料となる石炭は不足し、レールは空爆による破壊と老朽化がひどかった。東海道本線ですら1日2往復しかなく、明治初期のダイヤに逆戻りしていた。このため列車が出発する数時間から人々は改札口に並び、列車の網棚や屋根にまで人があふれ、殺人的な混雑であった。電車に乗る人たちの多くは買い出しが目的であった。


誰のせいでもない、あの飢餓の時代が生んだ事件であった。結局、母親は情状酌量のうえ不起訴処分になった。

昨日は、ブレーキや横揺れのたびに、斜めになったまま背中にいったん他の乗客の体重がかかってくると、またもとの位置に戻れるまで1分ぐらいはかかっていました。
「もし今気を失ったら、他の人もバランスを崩して折り重なってくるだろうな。そうしたらもとの状態に戻るまでに、私は押しつぶされて死ぬかもしれないな」
「あるいは、私の重みで近くにいる人が息絶えるかもしれない」
ずっとそんなことを考えていました。



ほんとうに「誰のせいでもない」し、駅員さんの大変さもわかるし、周囲で一緒に無言で耐えていた他の人たちもこうして出勤するしかないわけで、首都圏の過密した交通網を利用しなければ生きていけない時代なのですから。


ただ、今回は全身の筋肉痛と関節痛で済みましたが、圧死寸前のヒヤリハットかもしれません。


一車両への乗車制限という対応方法が必要ではないかと思うのですが、現実にはどのような対応が可能なのでしょうか?