観察する 19 <子どもも社会を観察している>

前回の赤ちゃんや子どもが泣かない社会もあるの続きなのですが、育て方やあやし方のテクニックという話ではなく、乳児や幼児といえども相手や社会を観察しながら発達しているのだろうと思います。


新生児でさえも、「もう寝たかな」とベッドに置こうと思っただけで置き去り防止センサーが作動しますし、最初はグズグズとこちらのアンテナを向けようとしていたのに、誰も来ないと「危険度マックス!」と激しい警告の啼き方に変化します。


生まれた直後から、こうして相手(見守ってくれる人)との距離を感覚でつかみながら、次第に複雑な人間関係の間合いのようなものに変化、発達して行くことはすごいと感動しています。


乳幼児とは、こんなに周囲を観察できる存在なのかと改めて驚いたのが、東南アジアでの生活の中でした。


日本だと、電車やお店などで2〜3才の子どもがぐずったり泣いていると、「赤ちゃんだなあ」とと感じてしまいます。
当人たちは「赤ちゃんじゃないよ!」と抗議するでしょうが。


「赤ちゃん」とか「子ども」という表現は、単に年齢を表した言葉ではないことを、東南アジアで暮らした地域で経験しました。


東南アジアで暮らしていた時に、その地域の交通手段は主に、座席が2列に向き合って十数人ぐらいが座れる乗り合いバスでした。
混雑すると、半分腰を浮かしながら座る狭さですし、大きな荷物や、時には市場で買って来た生きた鶏まで乗っているカオスな状況ですが、その中で乳幼児がぐずったりだだをこねる状況に、おおげさではなく一度も遭遇しませんでした。
記憶ですから、あいまいなところもあるのですが、それほど印象に残るぐらい、子どもたちが静かに公共の乗り物に乗っていました。


2才ぐらいの子どもでも、少し緊張した表情で周囲を見渡しながら座っています。
そして混雑し始めると、誰に言われることもなく自ら家族の膝の上に座り直して、他の乗客が座れるようにするのです。


5〜6才ぐらいの男の子たちになると、混雑し始めると、席を立って乗車口あたりの棒につかまって立ち、女性や高齢者(といっても40〜50代ぐらいでしょうか)に席を譲ります。


小学生ぐらいの男の子になると、車内が混雑する前に、乗り合いバスの屋根の上に移動します。



子どもでもそれぐらい社会の中の人間関係を客観視できるものなのかと驚いたのでした。
そして、むしろその子どもたちの姿に「大人」を感じたのでした。


こんなエピソードを書けば、「赤ちゃんは泣くのが当たり前なのに、子育て中の人を追い詰めるな」とか、「幼児や小学生を立たせる方が危ない」「子育て中の人がゆっくり座れることが大事」という意見のほうが多いことでしょう。
もちろん、私もそういう時代の変化に合わせて、自分の気持ちを切り替えています。


ただ、反面、日本では子どもたちでも何かきっかけがあればそれだけ社会性を持つことができることを、知らない社会に急激に変化したのかもしれないとも思えるのです。


ただ、「社会性」という言葉にも慎重さが必要なのですけれど。


「赤ちゃんや子どもが泣かない社会もある」
なかなか伝えるには難しい話題だと、自分で書いていても思います。
それは、ここ半世紀ほどで「子どもとはどのような存在なのか」という見方が180度ぐらい変わって、それぞれの世代でも捉え方が違うのかもしれないし、あるいは子どものことをよくわかっていないことを大人自身が認められないことにも理由があるのかもしれない。


子どもってなんだろう。
案外、子どもってわかったつもりにされている存在なのかもしれない。
ますますそんな思いが強くなっています。





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