行間を読む 52 <社会問題と正論>

昨日の記事で紹介した「乳児圧死事件」に、こんな部分があります。

このことが朝日新聞で報じられると、大きな社会問題として国民の関心を呼んだ。


たとえ電車が満員であっても、託児所もない現実を問わずに母親の責任を問うことはできないとする意見。むしろ過失は鉄道当局にあるとする意見。母親の非常識を責める発言、このようにさまざまな意見が新聞社に寄せられた。


もう少し検索していたら、この乳児圧死事件が社会問題になったあたりが書かれているサイトがありました。

1945(昭和20)年の年の瀬も押し迫った12月19日、東京・山手線の満員電車で母親に背負われた乳児(生後29日)が圧死するという事件が起きた。


その後、母親が過失致死罪に問われると、これをめぐる意見が「朝日新聞」の「声」欄に掲載され、社会問題として関心を呼んだ。
「声」欄に掲載された意見を列記してみると、電車は常に混雑しており、託児施設もない現実を問いもせずそのようなときに乗ったのが悪いというのは本末転倒であるとして、傷心の母親に過失致死罪を被せて事件が決着してしまうことに異議を唱え、これは婦人に直結した社会問題であると主張した。

これと並んで、「責任は鉄道にあり」とする男性の意見もあった。「母親を起訴する場合、鉄道当局の過失を認めていない事になるが、果たして当局に過失無きや否や」つまり、母親が乗車した13:30というのは電車が大混雑する時間帯ではなく、こうした時に事故が起きたのだから、当然過失が問われるのは鉄道だという意見である。

一方、この事件は「世の非常識な母親達への厳しい警告である」として、当分のあいだ幼児を連れて電車を利用することは極力避けて欲しい、という学生の意見もあった。

このころの庶民は、生きていくことに精一杯だった。この母親とて例外ではなかった。肺浸潤で寝たきりの夫、2歳の長男、生後間もない乳児を抱えて兄のところに同居していたのだが、立ち退きを迫られ、転居を余儀なくされていた。このときの外出は、それを父親に相談するためだったのである。

この事件についての検察側は過失致死罪の成立の基本となる「注意をすれば死なずにすんだか」どうかの注意義務、この場合は1.やむを得ない外出か、2.乗車中幼児の生命を護る処置に不備はなかったか、3.様子の変化に気づいたあとの処置は適切だったか、について所轄警察署に取り調べを命じた。検察側は、1と3についてはその事情を認めつつ、2については多少問題があるとしたが、結局情状を酌量して起訴猶予で決着する。


もし現代で同じような事故が起きれば、鉄道会社の責任が問われることでしょう。
鉄道・航空といった運輸や大工場などでのリスクマネージメントが、日本の医療に取り入れられたのが1990年代であったことをこちらの記事に書きました。


この「人はミスをおかすもの」という失敗学に基づいて「システムで事故を予防する」という考え方は、人間の社会の成熟に大きな貢献をしたのではないかと思えるほどです。


70年前の日本では、この事故でまず母親が過失致死に問われていたことを考えると、隔世の感ありという感じです。


<まさかと思うような時に起こるのが事故>


この記事も、昨日書いたように自分自身が圧死の恐怖を感じる状況を経験しなければ、また読み方が違っただろうと思いました。


上記の引用文の最後で、過失致死かどうかを判断するのに、「1. やむを得ない外出か」「2. 乗車中幼児の生命を護る処置に不備はなかったか」「3. 様子の変化に気づいたあとの処置は適切だったか」という3点が示されています。


時代も状況も違いますが、もし私が昨日、乳児を連れて電車に乗った母親だったら、なすすべもないとしか言いようがありません。


「1.」については混んでいたら乗らないでおこうと思ったのですが、乗車時にはまだまだ余裕がありました。


「2.」「3.」については、10駅ぐらいして前のめりの姿勢になり始めた時に危険を感じて、急いでいるわけでもないから降りようと、途中下車しようとしました。
ところが「降ります!」と言っても、人の壁は少しの隙間もできません。
周囲の人も「降りる人がいます」と声をかけてくださっても、どうにも動かないのです。
あきらめるしかありませんでした。


思わぬ事故というのはこういう時に起こるのだろうなと、無事を祈るしかありませんでした。


何かあれば「混んでいるのに乗った方が悪い」ことになるだろうし、そして鉄道会社も責任を問われるのだろうな、でもなんだかそれでは鉄道会社の人にも悪いなあと、まるで遺書の内容のようなことを考えていました。


<正論は解決策にはならない>


冒頭の新聞社に寄せられた意見を読むと、今もあまり変わらないなと感じました。


乳児圧死事件にしても、もし昨日、私かほかの誰かが車内で圧死したとしても、その対策は「車内の適正な乗車人数」を考える事が再発防止策ではないかと思います。


でも常に過密な乗車率と過密ダイヤですから、こうした突発的な状況で、そこを改善するのは一筋縄ではないことでしょう。


ところが、そうした根本的なことではなく、「託児所がない」「婦人の社会問題」になってしまったり、「幼児を連れて電車に乗るな」という話になっています。


おそらく現代なら、「子どもに優しい社会VS優しくない社会」の場外乱闘ともいえる議論の方が活発になるのではないでしょうか。


日頃、自分が主張したかったことを表現する好機にしてしまうと、現実の問題の根本的な解決から遠ざかってしまいやすいのかもしれません。


かくいう私も、社会の問題を知って世の中を良くできると正義感と理想に燃えていた頃の口ぐせが、「○○すべき」でした。
自分では道理にかなっていると思うからこそ、「○○すべき」という言葉を使ってしまっていたのだと思います。


ある日、誰かにそっと言われたことがあります。
「○○すべきという言葉はあまり使わないほうがよいと思う」と。


耳に痛い言葉でしたし、当時はその人への反発のような気持ちの方が強かったのですが、今は言ってもらえたことに感謝しています。


何か問題がある時には正論ではなく、いろいろな状況を知って折り合いをつけることのほうが社会を良くしていくのではないかと思うこのごろです。





「行間を読む」まとめはこちら