ケアとは何か 20 <乳児保育の質とは>

昨日の記事の続きです。


1990年代に、東南アジアの農漁村や少数民族の村を尋ねてまわりました。
母親たちが海外出稼ぎに行ったり労働力となっているので、残った祖父母や職が見つからずに居候している人たちが乳幼児の世話をし、あるいは日本ではまだまだ幼児と呼ばれているこどもたちまで乳児のケアの担い手の一部になっていました。


少し前の日本もこんな感じだったのだろうなと、歴史を垣間みる経験でした。


ところが、家族内に乳幼児を見守る手があるにも関わらず、あちこちの村でkindergardenを設立しようという動きがありました。
女性が安心して子どもを預けて働きに行けるためという目的もありますが、それまで子守りを担わされていた幼児たちに、子どもらしい適切な遊びの場や社会性を学ぶための場を作ろうということも目的のようでした。


今思い返すと、日本でも80年代後半ぐらいから看護でも耳にするようになった発達課題という視点が、世界中で意識され始めた時代だったのかもしれません。


それでも、その地域ではまだ乳児保育は家庭内に任されたままでしたが、少なくとも幼児も手伝わせている子守りのレベルから、結果的に乳児保育の質が多少は改善されることになったのではないかと思います。


そして妹や弟の世話から日中は解放することで、幼児には幼児らしい遊びなどを通して心身の発達する機会を与えようと、社会が変化して行ったのでしょう。



<子守りと乳児保育との違い>


歴史を行きつ戻りつ考えていると、時々、少し前はまだそんな時代だったのかとめまいがすることがあります。



私自身は、現代の日本とさほど違いがないような幼児教育を受けて、誰かに常に見守られて幼児期を過ごした記憶しかありません。
ところが、「保育」はどのように広がったのかで紹介した保育の歴史の論文を読むと、私の子ども時代というのは子どもが児童福祉法で守られ始めてからまだ10年ちょっとしかたっていなかったのですね。

(前略)それから2年後、1947(昭和22)年に児童福祉法が制定された。この法律の制定により、社会的に必要と認識されていた存在でありながら法的根拠を得ることができなかった託児所は、これまでの生活困窮家庭を救済するための乳幼児を受け入れる保護施設から、所得階層の如何を問わず日中保育に欠ける状態にある乳幼児自身のための児童福祉、保育所へと転換した。


(「戦後草創期の保育所ー元保育所保母の語りを手がかりにー」の「はじめに」より)

この「所得階層の如何を問わず日中保育に欠ける状態にある乳幼児」の部分がとても大事なポイントではないかと思えるのです。


「保育」とは片手間にできるものはない。
ただし、「片手間かどうか」「保育に欠ける状態であるかどうか」を乳幼児の保護者がどれだけ認識できているかどうかによって、保育の質が大きく変わる可能性があります。



乳児保育の質とは何か>


議場に7ヶ月の乳児を連れて行ったニュースに対して、「赤ちゃんがかわいそう」という反応もありました。
ただ、赤ちゃんの気持ちは想像するしかないので、「お母さんと一緒でうれしい」と思っているはずと言われれば否定のしようもないので、今回の話題の答えにするには分が悪そうです。


あるいは、もっと動き回るようになる幼児期に入った子どもなら、とても仕事と保育の両立は難しいでしょうから、そもそも議場に連れて行こうとは思わなかったかもしれません。


こちらの記事を読み返していて、「乳児保育の歴史は浅い」という部分に書かれている以下の箇所が、今回の件を考えるのにヒントになるかもしれないと思いました。

保育の方法論も、幼児教育は教育学の流れをくみ、それに基づく発想法が主流をなしているが、乳児保育は質的にややこれと異なるように思う。すなわち、いろいろな理念の前にまず乳を飲ませ、離乳食を食べさせ、おむつをとりかえ、泣けばあやし、病気があれば治療し、また予防する。これが育児の大部分をしめ、母親はこれを無我夢中に献身的に世話することにより、またそれが自然に感覚刺激となって乳児の発達をもたらす結果となっている乳児保育はまずこのような身体面の未熟さを守り、その養護についての知識を実施することであり、これが幼児の保育と違う難しい面でもあろう。

(この文章が書かれたのが1976年ですから、「母親はこれを無我夢中に献身的に世話をすることにより」の部分にジェンダー的に違和感を感じてしまう方は、母親の部分を「親」あるいは「養育者」と読み替えればよいかと思います。)



さて、ここで問い。
「7ヶ月の乳児の発達段階にふさわしい保育環境とは何か」


もしかしたらほとんどの人がこの答えを知らないまま、幅広い発達段階のある乳児に対して過度の一般化をし、「育児中の人に寛容で優しい社会のため」という大人の方便にしてしまっているのではないか。
であれば、少し前まで農作業の時にエジコに乳児を収納して子守りした時代の発想と、根は似ているのかもしれません。


「仕事場に子どもを連れて行く」ことの是非ではなく、「その赤ちゃんの保育として質が保たれているか」という点が大事なのではないかと思った次第です。


保育も介護も看護も、容易に非対称な権力関係に転化するを常に意識しなければ、(不適切な)ケアを強制されない権利が乳幼児にもあることを理解できないことでしょう。






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