乳児用ミルクのあれこれ 19 <ネスレボイコットが始まった頃の社会>

乳児用粉ミルクの不買運動は、1977年のネスレ・ボイコットから始まったようです。



この直前の1976年に、ダナ・ラファエル氏らが母乳育児に関して調査研究を始めたことをこちらの記事で紹介しました。
1976年当時の社会の認識が伺える部分を再掲します。

当時、発展途上国で母乳育児が衰退しつつあり、一方は乳児死亡率上昇の兆しがありました。この2つに因果関係ありと解釈する向きもあり、世界中の研究者や保健行政担当者が母乳哺育に注目していました。

この「因果関係」については、こちらの記事で、「もうダマされないための『科学』講義」(光文社新書)の菊池誠氏の文章を紹介しました。

(この二つの例はどちらも、)強い相関関係はあるが因果関係はないというものです。相関関係というのは、一方が増えれば他方も増える、あるいは一方が増えれば他方が減るという関係ですが、この関係があるからといって因果関係があるとはいえないわけです。因果関係の有無は別に証明しなくてはなりません。

ネスレ・ボイコットが始まる頃、途上国での母乳育児の衰退と乳児死亡率の因果関係はまだはっきりしていなかったのです。



<途上国で母乳育児の衰退は本当にあったのか>


ところが、途上国の乳児死亡率と相関関係にあると推測された「母乳育児の衰退」さえも、研究によって疑問が出ました。


ダナ・ラファエル氏の調査研究を始めた時期の話に戻ります。

当時、私を含め人々は、母乳育児は商業ベースで広がってきた粉ミルクに侵害されている。そして母親たちがそれにのって粉ミルクで赤ちゃんを育てると母乳がでなくなる、と考えていました。
そして乳児栄養の現代的方法(人工栄養ー母乳の喪失ー乳児の死亡)という図式を成立させてしまいました。


そして調査を始めるまでは、このように考えていたと書かれています。

1年前調査を始める段階では、母乳哺育は減っている。そのため乳児の死亡率が上がった。開発途上国での多国籍企業製品の侵襲的販売が元凶である、という図式になるだろうと私達は漠然と予測していました。


ところが、ダナ・ラファエル氏らの調査では以下のような結果がでました。

でも驚いたことに、私たちが調べた限りでは、母乳で育てる率は少しも減っていなかったのです。たいがいは、今でも母乳で育てるのが普通だったし、よしんば減っている地域があったとしても、それは母乳で育てる人の減少ではなくて、母乳で育てる期間が短くなってきたという意味での減少です。

世界的規模では予測通り、母乳で育てる率が減っていて、私たちが系統的に調査を始めた地域だけが例外だったということはあるのでしょうか。答えはノーです。WHO(世界保健機関)とユニセフが2年間にわたって母乳哺育に関する共同研究をした結果、9カ国22,857名の女性について私たちと同じ結論を出しています。

このように1970年代半ばの段階では、「世界中で母乳哺育が減っている」ことと「途上国の乳児死亡率」の因果関係どころか、その相関関係さえ議論の途上でした


ところが1977年には冒頭の「ネスレ・ボイコット」に書かれている問題点が批判の的になり、「乳児用粉ミルク・乳児用食品販売戦略に対する抗議行動・不買運動」が急速に広がっていきました。

1960年代、ネスレ社を含む多くの乳幼児食品販売会社は東南アジアなど開発途上国に進出し、粉ミルクを中心として産院や病院に対して職員を派遣し出産祝いに粉ミルクのセットを贈るなど人工栄養による育児を奨励してきた。しかしその結果多くの問題が発生したとして、小児科医師や栄養士を中心として告発が相次いだ。

母乳育児の衰退が本当にあるのか、母乳育児と乳児死亡率には因果関係があるのかの深い議論を待たずに、不衛生な状況で粉ミルクを使うことが理由にされていきました。

その理由の根拠はどこからきているのかたどっていくと、母乳推進運動あるいは乳児用ミルク不買運動で必ず目にする小児科医シシリー・ウィリアムズ氏にいきつきます。
このシシリー・ウィリアムズ氏について次回は考えてみようと思います。




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