行間を読む 50 <母乳推進運動と調整乳反対キャンペーン>

この記事から、「母乳が足りなくても安心」(二木武・土屋文安・山本良郎氏、ハート出版、平成9年)を引用しながら「乳児用ミルクのあれこれ」をしばらく書いてきました。


この本が出版された1997年ごろは、まだ新聞を隅から隅まで読んでいた時期ですし、本が好きだったので特に出版案内や書評などは必ず目を通していました。また大きな書店や図書館にも月に何回かは足を運んで、書棚も隅から隅まで見て歩いていた時期でした。


ところが、この本の題名に全く記憶がないのです。


1960年代や70年代ぐらいの授乳方法はどんな感じだったのだろうと検索してこの本に出会ったのですが、当時、出版されていたことさえ気づかなかったのは何故だろうと気になっています。


1997年頃の私は母乳授乳に人一倍関心があり、たくさんのお母さんたちを自主的にフォローして模索していた時期ですが、やはりミルクも必要という事実をようやく認められるようになった頃でした。


「母乳が足りなくても安心」と言われても、「そうなのだけれど、母乳で育てたい(ミルクは使いたくない)というお母さんの気持ちを納得させられるものでもない」と私自身がまだまだこの言葉を受け入れきれずに、無意識のうちにこの本の存在を無視していたのかもしれません。


さて、この本の副題には「ここまで進歩したミルクを読む」と「お母さん・小児科医・乳児保健婦に贈る」とあります。


1997年頃はまだ「完全母乳」という言葉も聞いた記憶がないし、WHO/UNICEFの「母乳育児成功のための10か条」も日本国内ではそれほど積極的に勧められていた雰囲気でもありませんでした。
母子同室を取り入れる施設もまだまだ限られていて、融通のきく中小規模の産院では取り入れていても、規模の大きい施設ではなかなか制約が厳しかった印象があります。


そんな時期にあえてこの本を出版した理由は、もしかしたら世界的にさらに母乳推進への流れが加速してくことを予想していたからかもしれません。


そしてこの本が出版されて20年近くたち、まさにこの著者の方々が危惧している方向へ進んでしまったのかもしれません。あるいはそれ以上の激しさで。


<母乳推進運動と調整乳反対キャンペーン>


この本の著者の方々を改めて紹介すると、二木武氏は1925年生まれの小児科医の先生で小児病院などを経て「1981〜89年まで全国乳児院協議会会長」と書かれています。こちらの記事でも紹介したように、戦後の乳児保育の変遷を見続けてこられた方のようです。


土屋文安氏は1928年生まれ、山本良郎氏は1935年生まれで、それぞれ農学部を卒業した後、明治乳業中央研究所で乳児用ミルクの研究・開発をされていた方のようです。


もし私がこの本を出版当時に手にしたら、「乳業会社とそれに近い立場の小児科医が書いた本」という先入観で、まずは気持ちが大きく揺れてしまい、この中に書いてある人工乳の変遷についても淡々と事実として受け止められなかったのではないかと思います。


私が調整乳反対キャンペーンを知ったのは、1980年代半ばに難民キャンプで働いていた頃でした。
経済開発や人権といった問題に敏感になっていたので、当時はまだ国内ではほとんど話題にもなっていない調製乳反対キャンペーンの存在を知ったのでした。
開発途上国で乳児に危険な粉ミルクを販売することで経済的利益を得ている・・・、そのイメージは私の意識のどこかに残りました。
あるいは国内でも、母乳は出るのにミルクが良いというイメージを広げて販売しているかのようなイメージです。


ですからミルクを足した方がよさそうな場合でも、ミルクの販売に協力しているかのような気持ちになりました。
おそらく私が人一倍、母乳哺育に関心があったのは、この調整乳反対キャンペーンを意識していたからなのではないかと、今になると思えるのです。


つまり、調整乳反対キャンペーンと母乳推進運動は対になった感情なのではないかと。


その感情を整理するのに私自身20年以上かかってしまったわけですが、今はこの本の題名やその著者経歴を見ても、感情をいったん脇に置いて乳児用ミルクの歴史をそのまま受け止められるようになりました。


<なぜ1997年にこの本を出版したのか>


「調整乳反対キャンペーンの時代背景」で紹介しましたが、この運動が始まったのは1970年代半ばですから、この本が出版される20年以上も前のことです。


その記事で紹介したダナ・ラファエル氏の本の引用文を再掲します。

母乳哺育は実際には減少していないのに、なぜ「人工栄養ー母乳の喪失ー乳児死亡」という考え方が出て、単純な原因(多国籍企業の販売促進)と単純な解決策(母乳推進運動)が支持されていったか。

そこで当然の帰結として、調整乳反対キャンペーンと母乳推進運動が起きてきました。
牛乳で調整乳を生産し、販売してきた企業関係者はこれには仰天しました。何しろ一世代前には人々に受け入れられるどころか、むしろ最高の称賛をほしいままにしていたのですから。


この一世代前というのが、乳児用ミルクの改良の変遷で書いた「70%型調製粉乳時代(1950〜1959年)」「特殊調製粉乳時代(1959〜1979年)あたりになるのだと思います。
それまでの牛乳を薄めていた時代から乳児向けの粉乳に加工され、さらに脱塩化や加工技術の発達で「夏季熱」や「太り過ぎ」といった問題も解決され始めていた時代です。


1997年頃の日本では、ここまで調整乳反対キャンペーンは広がっていない印象でしたが、それでも「乳児用ミルクを積極的に宣伝してはいけない」という雰囲気が出始めたように記憶しています。


たとえば粉ミルクの缶に「まるまると太って健康そうな乳児の写真を使ってはいけない」「母乳と同じといった表現をしてはいけない」といった規制が出始めたのもこの頃ではないかと思います。


当時の私はその規制の背景に何があるのか、そして近い将来、どのような方向に進むかまでは気づいていませんでした。


それが、国際的な完全母乳「戦略」に書いたように、「母乳代替用品のマーケティングに関する国際基準」であり、「乳児の栄養に関する世界的な運動戦略」となり、さらには2005年には「乳幼児の栄養に関するイノチェンテイー宣言」で「最適な栄養とは、生後6ヶ月間は完全に母乳で育てる」という一文にまで発展していきます。


そして災害時の完全母乳『戦略』に書いたように、援助もまた販売促進の機会として監視され、「母乳代用品、哺乳瓶、人工乳首といった寄付はどんなに善意であっても誤った援助です」という考え方まで出始めました。


そして2011年の東日本大震災でも、実際にその監視行動としてのメッセージが広げられました。


あるいは、早期母子接触、終日母子同室、完全母乳を推進する声も強くなりました。


1997年にこの本を書かれた著者らは、こうした世界の動きをひしひしを感じる立場にいらっしゃったのではないかと思います。
だからあえて、この時期に「母乳が足りなくても安心」という挑戦的なタイトルで、歴史を残そうとされたのではないかと思えて来ました。


乳児用ミルクの歴史を知ること、そして1970年代の調整乳反対キャンペーンとそれに続く時代は何だったのか、そろそろしっかり見直す必要があるのではないか。
そのための本だったのではないかと。


ところが当時著者の方々が思っていた以上に、その後さらにミルクを否定する時代になってしまったのかもしれません。


「母乳推進運動」が調整乳反対運動というネガティブキャンペーンを内包している限り、お母さんたちにとって乳児を育てるというハードルがますます高いものになってしまうのではないかと危惧しています。


毎日接しているお母さんと赤ちゃんに、どんなことを伝えたら良いのだろうと悩む毎日です。






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