少し間があきましたが、「『○○に良い方法』と身体拘束」と「『安全のための抑制』から『すべきでない身体拘束』へ」の続きです。
医療の中でも、まだ同意書まではもらっていない身体拘束の場面があります。
たとえば、分娩台への批判でよく聞かれた「足を固定される」です。
私自身は勤務した病院で、お産の時に全員に「足を固定する」施設はなくて、足台に足を載せてもらうだけでした。
分娩台の足台には足を固定するベルトが必ずついています。
これも拘束のためです。
何度か、このベルトで足を固定させてもらったことがあります。
産後の処置の際に、痛みと恐怖で大きく下半身が動いてしまうために固定したり、あるいは痙攣発作を起こしながら分娩になった方も足を固定しました。
それ以外は、私たちスタッフがこうした「拘束具」の代わりに足を押さえています。
また、麻酔を使う手術の場合にも手足を固定しますが、この場合にも拘束に対する同意書はいまのところ私の経験ではもらっていません。
入院中の赤ちゃんや小児にも「拘束」を使うことがあります。
まず乳幼児に使う、四方が高い柵になっているサークルベッドも「拘束」と言えるでしょうし、乳幼児の点滴の場合にはシーネ固定をしていました。
たとえば左手背に点滴針を刺したら、柔らかい金属にスポンジがついたシーネに左手を載せて手首まで包帯で固定をします。
最近では、シーネなし固定に変化しているようです。
これも、乳幼児の身体の一部を拘束をできるだけなくすように、看護側の意識が大きく変化したのだと思います。
<嫌がらなければ、本人は納得しているのか>
乳幼児、あるいは感情をうまく表現できない患者さんは、「嫌がっていないから、その拘束を受け入れている」かといえば、そうではないと思います。
たとえば、乳幼児に点滴のシーネ固定をすると最初はとても気になるようで、なんとかはずそうとする行動がよくあります。
そこで、小児科病棟ではアンパンマンとかを絆創膏にマジックで書いたものをそのシーネ固定に貼ったりします。
だんだんと気がまぎれていくのか、シーネ固定をした状態に慣れていくのです。
父も車いすに移れるようになった当初は、腹部から股にかけて締められる安全帯が嫌で、「はずしてくれ」と何度も言われました。
だんだんと、何も言わなくなりました。
納得したのでしょうか?
そうではないと思います。
あきらめたのでしょうか?
あきらめとも違うように思います。
うまく言えないのですが、もう「そこから自由になる可能性を考えない」状況で適応している状況ではないかと。
専門的なことはわかりませんが、それが人が心身を拘束された時におこる反応ではないかと思うのです。
<まんまるで「機嫌がよい」ことがよいのか>
最近、「まんまる」と言う言葉をよく耳にするのですが、子宮の中にいたような姿勢がよいとか心地よいとか、新生児や乳児が答えられるはずがない気持ちの部分がイメージとして広がっているように思います。
「まんまる子育てをしよう」というサイトの「赤ちゃんまんまる巻き巻きセット」をクリックしてを見ると、月齢に合わせてまんまるの方法があるようです。
「新生児期」「手遊び期」そして「足バタバタ期」とあります。
「2ヶ月以降、足をバタバタ動かすようになった時期の赤ちゃんにおすすめ」とありますが、出生直後から日々巧妙になっていく手足の動きは、自由に手足を動かせる中で養われていくのではないかと私には思えるのです。
たとえぐるぐる巻きにされて機嫌がよくても、そのおひなまきの中で赤ちゃんがキックをしようとするしぐさがあれば、私には「これをほどいて。自由にさせて」と言っているように見えます。
まあ、新生児や乳児の気持ちは誰にもわからないのですが。
それでも、何かで乳幼児をくるむのは、上記のシーネ固定の論文の「考察」に書かれている、「発達は身体的には子供が手足を動かす体験によって促進されるものである」という小児の発達の本質とはかけ離れた発想ではないでしょうか。
<「緊急やむを得ない場合」に該当する3要件」>
前回の記事で厚労省の資料、何の資料か出典がわからないのですが、「身体拘束に対する考え方」に、「『緊急やむを得ない場合』に該当する3要件」が書かれていて、「すべて満たすことが必要」とあります。
○切迫性:利用者本人または他の利用者の生命または身体が危険にさらされる可能性が著しく高い場合
○非代替性:身体拘束以外に代替する介護方法がないこと
○一時性:身体拘束は一時的なものである
ぐずる赤ちゃんを一人であやし、家事などもしなければいけない。
世話をする人が何かべつのことをしようとすればするほど、赤ちゃんはぐずる。
ぐずられれば、赤ちゃんに対して憎しみという感情さえ出てくる。
そういう状況では一時的に、赤ちゃんが落ち着く方法があればそれを使うことも選択のひとつだと思います。
ただ常に、たとえ赤ちゃんであっても一人の人の体を拘束しているという意識はどこかで感じていて欲しいと思います。
そうでないと、成長に伴って、またあらたな心身の拘束を選択しつづけることになるから。
そして「その子のために」という思い違いが生まれてしまわないためにも。
やはり私は、赤ちゃんをぐるぐる巻きにすることを「良い子に育つ」かのように勧めることには反対です。
「境界線のあれこれ まとめ」はこちら。