行間を読む 60 <「自然なお産運動」の終焉>

「産み育ての助産の歴史」の感想をひと言で言えば、今日のタイトル通りです。


本の目次を見ると、「自宅で産んでいた人々」「医療者が介入しない出産」「産まされるお産から産むお産へ」「ラマーズ法と自然出産運動」といった言葉が並んでいます。


著者のお名前も、そういう運動でよく目にした方々です。
たとえば、「同じような出産だったせいか、みんな同じような表情をしている」とか、「これからは、ハイリスク出産にも助産師のケアが必要な時代」とか。


出産の医療化と助産師が看護師の資格を有することで、すでに半世紀以上も現代の助産師は「すべての妊産婦さんに対応」していたのですけれど、「正常なお産」だけに対応する開業助産所や自宅分娩を持ち上げて来たのが「自然なお産運動」だったといえるでしょう。


医療介入への嫌悪感が、ひとっとびに「主体的なお産」という言葉になり、そしてそれを実現してくれるためには「自律した助産師」が主導したお産の場所という幻想


自分たちの思い描く理想のために、歴史や現実の変化の解釈が一方的で、矛盾に矛盾を重ねてもそれを認められないのかもしれません。


そして自分たちの価値観とは相容れない人には、その現場を知らずして、こんな容赦ない言葉を書く独善性がどこから来るのか。
それがイデオロギーなのだと思います。

一方で、近年では、助産師自らが「自律的なケア」を望まず、協調の名の元に医師の庇護と指示のもとで働きたいと考えている。また、産婦自身も「主体的なお産」を望んでいない、とも言われる。(例えば「医療施設で働く助産師への業務拡大に関する意識調査」)。p.301


社会はもっと現実的であり、こうした人たちが思い描いてきた出産は社会にもそして大半の助産師にも求められなかったという結論で、当然と言えば当然だと思います。


「無事に赤ちゃんが生まれてくれる。それだけです」
「産婦さんと赤ちゃんが無事に出産を終える事ができる」
そう思うことを「主体的でない」「自律していない」と思い込む人の気持ちは、よほどなことがない限り変わらないことでしょう。


「よほどなこと」
出産での余程な事と言うのは、「死ぬか生きるか」を実感するぐらいのことに遭遇することです。


1970年代頃からの「自然なお産運動」も終焉に近づいたのだろうな、と80年代からの流れを見て思います。


そしてこの本は、後世では「自然なお産」運動の思想とその運動の断末魔の叫びが描かれた古典的資料のひとつとして取り扱われることになるでしょう。
出産の医療化は社会が求める出産の安全性という理想を実現するものであったのに、時代を見誤ってしまった運動として。




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