ケアとは何か 17 <さて、死んだのは誰か。死化粧>

時々、池田晶子氏の本を読み返しています。


「事実とは何か」まとめに書いた「生きている実感がない」についても、池田晶子氏の本に「あ、この感じ」と表現された箇所があります。

 私を考え、私を突き抜け、普遍に至る。これが形而上学(メタフィジカ)。もはや「私」はNobody、そして、Everywhere。帰属と肉体は世を忍ぶ仮の姿、人生の日々は相貌を変えぬままにその意味合いを変えるだろう。哲学が、入門を要するような特別な何かではないのは、それが学問である以前に、この人生の在り様を「不思議」と思う、ひとりひとりの感受性だからであり、またそれが安直な人生論とも違うのは、「生死」という絶対的事実にとっては、それについてのハウ・ツウなど蜉蝣(かげろう)の寝言のようなものだからだ。哲学を経由したところで、この人生の姿は、ほんの少しも変わりはしない。つまり私たちは皆、死ぬまで生きている。私たちは死ぬ、私は死ぬ、誰も死ぬ、彼も死ぬ。しかしー「死」とは何か。この世の誰ひとりとして、未だかつて経験したことのないそれは、いったい何なのか。誰ひとり死んだ経験がないにもかかわらず、死ねば何も亡くなると、なぜ皆信じ込んでいるのかー。こんなふうにして、人は、「人生とは何か」という素朴にして陳腐なる問いが、人類の全員にとって、いかに途方もない疑問符として在り続けていたか、気づくに至るだろう。そして同時に、もはや自身の死の時まで、一度眼を合わせてしまったその問いから、眼をそらすことができなくなったことも知るだろう。生(ある)と死(ない)を巡りつつ、螺旋状に離陸してゆく悩ましい思考は、彼方のあの消失点で、きっと自爆する。

 満員の電車の中で、皆と一緒に揺すられながら、私は、それら寡黙な頭の群れを、この世ならざる視線で眺めている自分に気づくことがある。(きっと、そんなとき私は、木のうろのような眼をしている。)百年後には、ひとり残らず居なくなる。ここに居る、たったのひとりも、この世に居ない。政治家も、ジャーナリストも、なんだかんだのわっしょいわっしょいも、みんなみんな、居なくなる。東京ドームもがらんどう。一陣の風が、ひゅうと吹く。ーであるとして、と私はいつもそこで、さらに醒め出してしまうのだ。誰ひとりとしてそこに居ないその光景を眺めている者が居たとして、その視線、それは「誰」のものか。核戦争で地球は全壊滅、であるとして、その事態をそうとして認識している何者かの意識を想定したその刹那、私は地上の「私」を超える。超えて宇宙大に爆散する、その一瞬を、私ははっきりと自覚できる。

 それは「意識」だ。誰でもなく、無くなることもできず、在り・続ける普遍的な「意識」だ。これはとんでもないこのであるが、事実である。神秘ではあるが、明瞭な直感の型(ロゴス)である。なぜならこころみに、「無」を意識のそこに表象してみよ、「無いもの」を考えてみよ。これは絶対に不可欠である。したがって、人類がひとり残らず居なくなっても、意識は無くならないだろう。意識は、生々流転する万物をそこに浮かべて、永遠にあり続けるだろう。
 「私とは何か 死んだのは誰なのか」(講談社、2009年、p.33〜)

まだまだ咀嚼しきれていない内容なのですが、感覚的にわかるような気がします。
それこそ「意識」で。



<死化粧>


総合病院や介護施設のように、日常的に「死」と向き合っている施設での勤務を離れて十数年になります。


数年もすれば、治療方法や看護が変化し、社会が求めていることも変化していくので、再び総合病院で働くのはいろいろな意味で大変だろうなと思っています。


その中でも、看護の話題の中でここ十数年で大きな変化を感じているのが、エンゼルメイクという死後の処置と死化粧に対する考え方です。


1990年代ぐらいまでは、まだご遺族の方もその方が亡くなった時にどうしたいかということまではあまり考えていないようでした。
もうそろそろかという頃合いで、「お見送りの時に何か着せたいものがあったら準備してくださいね」とお伝えしても、病院の売店で売っている寝間着の浴衣の方がほとんどででした。


病棟にはエンゼルセットといって、鼻や口に詰める綿や手を結ぶ布や顔を覆う布が一式になったものが準備されていました。
亡くなって、御家族とのお別れの時が済むと、看護スタッフが清拭をし、点滴やその他のチューブを抜いて、傷が見えないように工夫をしながら、出棺のための着物に着替えをします。


男性の場合には、無精髭があれば剃り、女性の場合には死化粧をします。
化粧品はスタッフが持ち寄ったものが病棟にあって、それを使っていました。


今思い返すと、亡くなる前に「化粧をしますか」とご本人に確認したわけでもなく、また御家族にも「こちらでさっとお化粧をしておきますね」ぐらいの説明でした。


<エンゼルメイク>


当時も死後のそうした一連の処置を「エンゼルケア」と言っていましたが、最近は内容がだいぶ変化したようです。
特に、看護師向けの「エンゼルメイク」講習が開かれるようになって、より美しく死化粧をする技術を学ぶ機会もあるようです。


実際に、亡くなった方の顔に化粧をするというのは難しいものです。
若いスタッフは自分の顔には美しく化粧ができるのに、亡くなった顔に同じようにしても、なにかしっくりこないのです。
死化粧をするのであれば、故人の表情に似合った化粧をするとことは、ご遺体の尊厳を守るために必要なことだと思います。


ただ、私自身はすでにほとんど化粧をしなくなっていたので、「この死化粧は誰のためなのだろう」「私が死んだ時には、死化粧はしないで欲しいとあらかじめ伝えなければ」と内心は思っていました。


検索すると、最近では「遺体感染管理士」とかエンゼルケアの民間資格もあるようです。
そのサイトに、死化粧について「誰のために行うのでしょうか?」というコラムがあって、以下のように書かれています。

遺族の死の受容(死を受け入れること)に影響を及ぼす要因を次のように考えます。
故人との関係性、死や葬式に対する免疫性、人生観・宗教観などの遺族自身の要因、死亡に至るまでの敬意、死亡の情況が影響すると考えています。したがって、死を受容するまでの心の葛藤は、常に個別で一つの家族でも一人ひとり異なります。悲しみからの回復には、上述に加え、悲しみを分かち合える家族の存在が影響すると考えられます。
私は、死化粧をするとき、ご葬儀を終えられた後、悲しみの回復に時間を要する、悲しみが最も深いと思われる人に向けて行うよう心がけています。

また、「ナースフルマガジン」というサイトの「看護師にとってのエンゼルケア、エンゼルメイク」では以下のように書かれています。

エンゼルメイクの定義は、「医療行為による侵襲や病状などによって失われた生前の面影を、可能な範囲で取り戻すための顔の造作を整える作業や保清を含んだ"ケアの一環としての死化粧"である」と言われています。ケアを施した看護師にとって、「きれいな姿を整えてあげられた」という満足感は、「ベストを尽くした看護ができた」という自信につながるでしょう。

ああ、死んだのは誰なのだろう。





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