ケアとは何か 15 <ケアの独善性>

1970年代末に看護学生になったのですが、1年生で「患者中心の看護」という言葉を学んだように記憶しています。


この「患者中心の看護」というのは、アメリカの看護師アブデラによる看護理論からきているようです。1960年に出され、日本では1963年ごろから医学書院で訳本が出されたようです。
私たち世代が影響されたけれど、現在はもう古いのかなと思っていましたが、なんだか現在も影響力があるようです。


「・・・ようです」というぐらい私は看護理論については疎いのですが、その原語は何だろうと思って検索したら、そのものずばり「PATIENT-CENTERED APPROACHES TO NURSING」でした。


英語だともう少しその意味が伝わってくるのかと期待したのですが、よくわからない言葉ですね。


その後、1980年代から次々と「主にアメリカから輸入された」看護理論をきちんと勉強していないからわかっていないということももちろんあるのですが、ある時期から、こういう「理論」と日々の実践がかみ合っていないような感覚がありました。


こちらの記事に、そのあたりのことを書きました。

1980年代終わり頃に助産婦学校を受験するための勉強で一番つまづいたのが、私が看護学校を卒業したあとのわずか数年で広がった、名前も聞いたことがない数々の海外の看護論を覚えなければいけないことでした。


たしかに臨床実践を言語化したものなのですが、各論であって総論がない、つまりその言語化するためのもっと法則的なものが何かを知りたいのになんだか表層的な理論だなと感じました。

もちろん、看護の黎明期のような時期から徐々に理論化されていった段階なのですから、求めすぎてもいけないのですが。


でも「患者中心の看護」という言葉が、患者さんを大事にして「すばらしい看護をしている私たち」という職能団体のプライド的な言葉になってしまっているような気がしていました。




<「共感する」「傾聴する」とか「寄り添う」とか>


1990年代にはいると、「共感する」とか「傾聴する」という言葉が広がり始めました。
よくわからないのですが、心理学的な領域からの言葉なのでしょうか?


たしかに相手の話をよく聞き理解しようとする姿勢は大事なのですが、看護目標に「対象に共感する」といった使われ方があったり、「患者さんの話を傾聴する」といった使い方が増えてきました。
傾聴って何か、今もよくわかりません。



まあ、私自身があまり自分の悩みなどを人に聞いてもらいたいとは思わない方なのですが、中には悩むでも考えるでもなく誰かに話を聞いて欲しいという人もいるでしょうから、そういう場合には「傾聴」という使い方もあるかもしれませんが。


2000年代頃でしょうか、「寄り添う」という言葉が看護でも広がり始めたのは。
私自身は感覚的にこの言葉がとても苦手であることはこちらの記事にも書いたのですが、それは好きか嫌いかの気持ちの問題なのだとは思います。



ただ、看護とか助産で使われることへの違和感をもう少し掘り下げてみると、「ケアの独善性」という落とし穴が待っている言葉だなと思います。


その言葉(呪文)を唱えているだけで、なにか良いことをした気分になる魔法の言葉のような、そんな感じです。




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