気持ちの問題 32 <羞恥心と客観的に物ごとをみること>

恥ずかしさについての人生最初の記憶と言える場面があります。


ただ、その「恥ずかしさ」とは、たとえばWikipediaに書かれている説明のような「『恥となる行動をしてしまった』と感じる感情である」とは少し違うような気がするのですが、それは何故なのだろうと考えています。



その記憶にあるのはたしか3歳か4歳頃だったと思うのですが、親に連れられて訪問した家での場面です。
その家には1歳より前の「赤ちゃん」がいました。
アルバムにもその「赤ちゃん」と一緒の写真が残っているのですが、その写真にも「私はお姉さんなの!」という気持ちが表情にすごく表れています。
子どもの頃からその写真を見るたびに、この時の私の気持ちとそれに対して「ああ、恥ずかしい」という気持ちがよみがえってくるのです。


別に失敗した記憶でもないし、Wikipediaの説明に書かれているような「罪悪感」につながるような感情とも違うのに、なぜ恥ずかしいのだろうと。


3〜4歳といえば、はたから見れば十分に赤ちゃんに近いような子どもですが、それなのに赤ちゃんに対して自分がもっと人生経験があって世話をしたいという感情が出たことに、自分という実像と人から見たギャップに気づいて恥ずかしく感じた。
そんなあたりのような気がします。


もしかしたら、「人から自分は(自分の言動は)どう見られているのか」ということを初めて鮮明に意識したのがその写真の場面なのかもしれません。
「客観的に自分自身を見ていることに初めて気づいた瞬間」とでもいうのでしょうか。



<「恥ずかしさ」の個人差のようなもの>



最近、電車のマナー広告に「車内での化粧はやめましょう」と呼び掛けているのを見ました。



以前も口紅やファンデーションでちゃちゃっと化粧直しレベルの行為を電車内でする人はいたと思うのですが、化粧の全行程を堂々と電車内でする人を見かけるようになったのはいつ頃でしょうか?
いろいろと議論を呼び起こして、最近では最盛期に比べたらだいぶ減りました。


近い座席でされていれば迷惑ですし、離れた座席でも「見たくないものを見せられて不快」という感情を持つ人も多いことでしょう。
ただ、案外と電車内の化粧にも寛容な声もあって、やはりマナーとかルールは社会の気持ちなのかもしれませんね。


最初の頃は、「他の人のことなんか知るものか」と開き直ってわざとしているのかと思っていたのですが、最近はむしろ「本当に他の人の存在が気になっていないから、恥ずかしいと思わない」のかもしれないと受け止めています。


「他人の存在」とか「他人からどう見られているか」、あるいは「他人との距離はどうか」といったあたりで、客観的に自分の行動を見ていない人が増えたのではないかと。


電車内で横に座った人を肘で小突いても気にしないとか激混みの車内で好きな方に向いて立って周囲にスペースができても気にしないとか大きなバッグを背負ったりとか、長い髪がバサバサと人にかかっても気にしないとか、これらもやはり客観的に自分と他人の状況を気にしていないからできるのではないかと思います。


もちろん、人の気持ちは多様ですから、あまりマナーやルールでなんでも規制する社会はそれはそれで息苦しいものです。


ただ、もしかしたら人生の最初の頃にこの客観性を学ぶ大事な機会があることに社会全体に気づいていないか、忘れてしまっているのではないか。
そんなことを考えて、電車内で観察しています。


もう少し、続きます。



「気持ちの問題」まとめはこちら