気持ちの問題 31 <「恥ずかしい」という気持ちはどこから何に対してでてくるのだろう>

「東京グッドマナー」と聞くと恥ずかしいという想いがこみ上げてくるのは何故なのだろうと考えているのですが、日本人のコンプレックスの裏返しのように見えるからかもしれません。


20代前半で、「世界」に飛び出した時のアンビバレンツな感情がふつふつと思い出されてくるのです。
欧米からきたスタッフと一緒に働くということで、マナーの悪い日本人とか野蛮な国民と思われないようにと、ちょっと脇に汗をかくような緊張感が。


今思い返すと笑ってしまいそうなほど、私自身が当時の日本社会の窮屈な人間関係やマナーの低さをコンプレックスとして感じていて、それでいて「日本はすばらしい国なのだから馬鹿にされてはいけない」という愛国心のようなものに強く支配されていたのかもしれません。
男性が先とか「先輩」が先が当然という文化から、個人と個人が対等である関係になじむまでは、どう立ち振る舞ったらよいのか冷や汗の連続でした。


また、英語の授業では耳にしたことのない「disgusting!」という言葉が、一緒に暮らしたアメリカ人の友人たちの口からでると、ヒヤリとしていました。
たいがいは現地の人たちや難民の人たちのマナーに対して発せられた言葉でした。
日本語訳では「胸が悪くなるような」「実に嫌な」ですが、もっと「信じられない!あり得ない!」というニュアンスも含んだ感じでした。


ああ、彼らや彼女たちが日本に来たら、きっと連発するだろうなと。


まだ1980年代の日本では、路上で唾や痰を吐いたり電信柱に向かって小用をする人は多かったですし、電車でも我先にのって座席を確保する人が多かったですしね。
そして相変わらず、駅や道ばたに吐くことに寛容すぎる社会です。



ただ、乗り物でのマナーでいえば、東南アジアのほうが格段によいと思いました。
現地の乗り合いバス的な車の座席は、みんなで詰め合って一人でも多く座れるようにしてくれますし、元気な少年や男性たちは率先して屋根の上に移動して、女性や幼児が車内で座れるようにすることが当た前のようでした。


電車内で大股を開いて座っている男性や、目の前に体の不自由な人が立っていても気にしない人を見たら、「disgusting!!!」って言われるだろうなと、友人を日本国内の旅行に招待した時にはドキドキしました。


幸いにして友人たちは、一緒に日本を旅行した時には私の目の前で「disgusting!」と言わないでくれました。
そして座席が空いていると、日本人に比べて大きな体を縮ませて、前屈みになるようにして座って静かに本を読んでいました。


ああ、なんだか恥ずかしいと心底思ったのでした。


羞恥心とは社会の中での行動と関係があるのだろうと、その頃から漠然と感じていました。


ただ、同じことを伝えるのに「江戸しぐさ」とか言われると、穴があれば入りたいと思う恥ずかしさを感じるのは、そこに裏返しのコンプレックスが見え隠れするからなのかもしれないと思うのですが、どうでしょうか。




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