事実とは何か 19 <「タンパク質が足りないよ」>

一昨日の第五福竜丸展示館で、もうひとつ印象に残った展示がありました。


第五福竜丸はマグロはえ縄船として、遠洋漁業に従事していました。
その航海記録が地図で展示されていましたが、水爆実験の被害にあった太平洋マーシャル諸島だけでなく、インドネシアやタイなど東南アジアへの寄港もありました。


「予想以上に大きな船」と感じたのは、木造船なのにしっかりした作りだったことと、1980年代から90年代にかけて東南アジアで実際に見たマグロ漁船にくらべても遜色が無い立派な漁船だったからでした。


1980年から90年代でも、東南アジアで操業している中型漁船は冷凍設備がなく、マグロはつり上げたそばから大量の氷で冷やす必要があることを現地で知り合った漁師の方たちから教わりました。
1950年代の冷凍施設のない時代に、氷でマグロを冷やしながら太平洋から東南アジアなどで操業していた漁船を実際に目の前にして、「予想より大きい」と思いながらも「こんな小さな木造漁船であの大海原を航海していたのか」という驚きもありました。


<「タンパク質が足りないよ」>


なぜ危険を冒しても、遠洋漁業に出る船があるのか。


その理由として、終戦直後の日本の食糧難があったことが展示されていました。
当時の国民一人当たりのタンパク質の1日量がわずか4gぐらいだったとあります。それが「タンパク質が足りないよ」という言葉で、展示されていました。
現在の必要所要量の10分の1にも満たない状況で、マグロなどの水産物でその栄養を供給するためという理由もあったようです。


第五福竜丸の事故から10年たった1960年代半ばでも、公務員だった父の給料では、まだ肉や魚はそう毎日食べられるものでは無かった記憶があります。
母も、「あなたたちに満足に食べさせてあげられなかった」と時々口にするぐらいです。
私自身は幼少時に飢餓感を感じたり食事が貧しかった記憶はあまりないので、それなりに食べさせてもらっていたのでしょうが、栄養を十分に採らせるためにあれこれと苦労していたのかもしれません。
それからさらに10年たった1970年代には飽食の時代へと変わっていきました。


日本の遠洋漁業については、遠洋とはよその国の沿岸・沖合であると、1970年代頃の東南アジアの漁師の人たちへの影響を考えると批判的にとらえていましたが、そのもう少し前は確かに日本には食べものが無かったのだとまた少し歴史を垣間みたのでした。


展示館の「展示の趣旨」にもこう書かれています。

木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。

それがタンパク質が足りない日本社会への大事な任務でもあったのだと、航海日誌を読みました。



<タンパク質が足りない時代があった>


現在60歳代以上の方であれば、この「タンパク質が足りないよ」と言われていた時代の記憶があるのではないかと思います。
50代半ばの私でさえ、多少、その時代の終わり頃の記憶があるのですから。


この展示を見て、ああ、日本にも栄養失調児の親もまた栄養不足の時代があったのだと、改めて思いました。


であれば、なぜ「昭和30年代に母乳育児は壊滅的に減少した」とあたかも事実のように主張する人たちがいるのだろう。
1日のタンパク質摂取量4gで、どうやって母乳だけで育てていたのだろう。


やはり「完全母乳」という言葉は、事実に基づく言葉ではなくファンタジーに過ぎないのだと。
ましてや災害などをそのプロパガンダの機会にしてはいけない



事実とは何でしょうか。




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