天竜川をみた後は、浜松から東海道本線に乗って三島まで海岸沿いの風景を見ようと計画を立てましたが、日が長くなったのでどこか途中下車できそうです。
それなら、かつてから行ってみたいと思っていた焼津漁港に立ち寄って見ようと思いました。
なんとなく静岡市の近くという記憶はあったのですが、地図でパッと見つけられませんでした。
というのも、今までけっこうあちこちの漁港を歩いた経験からいくと、漁港がある地形というのは少し湾になったようなところでした。その先入観から探していたので、比較的まっすぐな海岸線にあった焼津港が見つからなかったようです。
子どもの頃からの遠洋漁業の中心地というイメージと、その地形が違いました。
地図を見ると、駅から徒歩数分の距離ですし、なんと漁業資料館もあるようです。
私が漁業や漁港に少しばかり関心があるのは、1980年代から90年代に東南アジアの漁村で過ごしたことがきっかけでした。「遠洋とはよその国の沿岸・沖合である」という水産関係の資料の一言で、ずっと魚を採りすぎて来たのではないかという思いがありました。
当時のままの考え方であれば、焼津漁港を見てみたいという気持ちも、遠洋漁業へただ批判的な見方を持ち続けていたかもしれません。
その後、歴史を行きつ戻りつ考えていくうちに「タンパク質が足りないよ」という時代を支えたのも漁業でしたし、その第5福竜丸も焼津漁港の船だったことなど、時代の背景やその地域の歴史への関心がひろがったことで、安易に拙速に物事を批判的に見ていた自分を省みるようになりました。
ということで、今回は、なぜこのまっすぐな海岸線に大きな遠洋漁業の港ができたのか、それを知りたくなったのでした。
なんだかブラタモリみたいですね。
*浜辺だった焼津*
焼津駅から数分で、焼津漁業資料館につきました。
たくさんの漁具と、漁船の一部まで展示してあって、「どうぞ自由に触ってください」とスタッフの方が声をかけてくださいました。
地図や写真が展示してある一角で、ヒントが見つかりました。
江戸時代からカツオ漁の盛んだった焼津は、瀬戸川の河口に広がる浜辺だったようです。
砂浜に直接水揚げしている昭和初期の写真があり、こう説明書きがありました。
艀(はしけ)で荒浜へ水揚げ
焼津の海は、急深で容易に港が作れないところであったため、艀を用いて砂利の浜へ水揚げをした。
焼津市の歴史を読むと、明治時代から漁業組合が作られ、「1941年(昭和16)8月:漁船の徴用で焼津の遠洋漁船のほとんどが消滅」とあるように、戦前にはすでに遠洋漁業の基地になっていたようです。
ところが、戦後の1948年(昭和23)の「"くりばえ”で鮪の水揚げ」という写真では、まだ浜辺まで、ロープに鮪をくくりつけて水揚げしている様子が写っています。
そして同じ年に、アイオン台風の高波によって浜通りの民家にまで堤防を越えて石や岩が波によって打ち付けられている写真があるのですが、写っているのは砂浜でした。
ちなみに、Wikipediaの第五福竜丸の「当時の第五福竜丸」では、コンクリートの護岸に停泊している写真がありますが、ここが焼津漁港であるとすれば、1951年(昭和26)に焼津漁港が完成した後に写したものということになります。
それ以前は、あの荒浜まで少し離れた海に停泊している漁船から水揚げしていたのでした。
1980年代から90年代に、東南アジアのあちこちの漁村で見た風景のように。
近代漁港が完成する前年、1951年の「素掘りの港」という写真には、こんな説明書きがありました。
ー当時を知る漁業者の回想ー
素掘りながらも港も出来て、棒杭にモヤイ網をとって、泥んこの所へ飛び下りた時には、本当に「ああ港ができて便利になっていいなあ」と涙が出るほど嬉しかった。
戦前から東南アジアの海まで出かけてたくさん魚を採り、大きな近代漁港へ水揚げしていた遠洋漁業の中心地の焼津港という私のイメージは、間違いであったことがわかりました。
焼津の資料館に行って見て、本当によかった。
ただの思い込みで、遠洋漁業へ携わった人たちへ勝手に反発した感情を持っていたことに気づけたのでした。
さて、「なぜ砂浜だった焼津港は遠洋漁業の中心地になったのか」の答えですが、おそらく、「焼津の海は、急深」だったからではないかと思います。
大型漁船が入るには水深が深い場所が必要なことは、ODA(政府開発援助)で世界各地に漁港が建設されていた時期の資料で知りました。
そして、その地形と、外からの資本が結びついて発展した。
そんな感じでしょうか。
資料館から出てすぐの港では、これから出航する漁船に食糧などを大勢で積み込んでいました。
漁港って、いいなあ。
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