食べるということ 31 <それは誰のものなのか>

今年は秋刀魚が豊漁とのことで、収入が不安定そうな漁業関係の方達は朗報で良かったとニュースを見ていたら、「小さい秋刀魚を無料で配布」している映像がありました。
ああ・・・。


あればあるだけ獲ってしまうかのような日本の漁業の先行きが不安だなあと思っていた時に、撮り溜めしていた「ガイアの夜明け」の「異変ニッポンの魚〜進化する漁業の挑戦〜」を観て少し希望が持てました。
定置網にかかる魚のデーターを集めて魚の種類と数を予測し、魚群探知機の魚影から何を獲り、何を獲らないを選択しながら漁をするという方法を試しているという内容でした。


全国に4000カ所以上ある定置網を「観測網」と捉えて、気象データーと同じように日本近海のどこにどのような魚がどれくらいいるかというデーターを集めて、「それを見える化」して資源保護につなげるという考えのようです。
それが水産業的にどれだけ有効なのか、他の意見や方法はどうなのかまではわからないのですが、少なくとも「昔は『たくさん獲りましょう』『たくさん供給しましょう』というスタイルだった。今のままでいいかというとそれはやっぱり変えなきゃいけない。観測データーを少しでもいいから増やしていく。それを次の世代の人たちに渡す」という言葉がテレビで流れたことにちょっと胸があつくなりました。
この30年で、ゆっくりだけれど確実に社会は変化しているなと。


1950年代には国民のタンパク質不足を解決するための遠洋漁業の発展でしたが、1970年代80年代には他の国の沿岸漁業を圧迫するほどになり、「日本人は魚を一網打尽にして獲り尽くす」と批判され始めていました。


30年ほど前に出会った東南アジアのある地域の漁師の方から、「途上国だから、貧しいからといって私たちのことを助けようとは思わなくていい。それよりは、日本人が何をするべきなのか考えて、日本に伝えてほしい」と言われたのでした。
結局私にはとても手を出せるような問題ではなく、「日本は魚を獲りすぎているのではないか。贅沢な食べ方をしすぎているのではないか」という問いの答えを探すだけの30年でした。



<「無主物」である>


ただ、資源管理方法が確立されても、魚に対するヒトの気持ちが変わらなければ乱獲は続くだろうと、冒頭のニュースを見て思いました。
多分、「海や川にいる魚はタダ」「誰のものでもない」あたりが変わらなければならないのではないかと。


30年ほど前に水産関係の資料を読む中で、心に残った言葉が「無主物」でした。


コトバンクで「水産資源」を検索すると、「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「水産資源の特徴」に以下のように書かれています。

第二の特徴は無主物性である。水面は基本的には公共のものとされているため、そこに生息する生物も無主物であり、水面から引き上げられた(漁獲)時点で所有権が発生する。


水を盗むのような、水に対する感覚も似ているかもしれません。
たとえば、湧き水をタダで持って帰ることができる場所がたくさんありますが、水もまた無主物といえるかもしれませんね。
「タダでどうぞ」の場所で持ち帰ることは問題ではないのですが、おそらく「水はタダ(タダのようなもの)」という感覚が根強いのかなと思う場面が日常でもあります。
最近、よく見かけるウオーターサーバーですが、本人持参のポットに並々と汲んでいる方を見かけます。
ウオーターサーバーの持ち主の許可を得なければ「水を盗む」に近いのではないかと思うのですが、やはり「水はタダ」という感覚が染み付いているのではないかと想像しています。


あるいは野原の菜の花とか。


この無主物に対する気持ちをもう少し噛み砕いていかないと、魚は乱獲され続けるのではないかと思えるのです。




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