今回の旅のスタートは新浦安駅ですが、せっかく京葉線 に乗るのだから葛西臨海水族園にも立ち寄ろうと欲張った計画をたてました。
というのも、水草展が開催されていることとオニバスが開花しているからです。
暑かったことと平日でもすごく混んでいたので、残念ながら水族園は駆け足で見学して先を急ぎました。
京葉線の新浦安駅では降りたことがなく、千葉方面へ行く時にここを通過する時にはいつも海の方を見ていましたから、新しく埋め立てられたベイエリアの雰囲気のイメージしかありませんでした。
どんな街だろうと、わくわくして降りました。
駅からすぐ、境川があります。
その横に若潮公園という大きな防災公園があって、その入り口に「漁業記念碑」として漁船の石碑がありました。
Wikipediaの境川の説明にある通り、「漁港として、両岸に集落が立地」していた時代の記録なのかもしれません。
まっすぐに流れている境川の下流には、たくさんの船が係留されているのですが、まだ新しく埋立られた街という印象でした。
ところが、首都高速の高架橋を越えて浦安市役所のあるあたりから、街の風景は一変します。
このあたりが、埋立地との境界なのかもしれないと思いながら歩きました。
市役所の前に境川東水門があり、そこから先はWikipediaの「概要」にあるようにレンガづくりの護岸と遊歩道が続きます。真正面に東京スカイツリーも見え、両岸も昔からある家が増えていきます。
おそらく川が生活の中心だったのだろうなと思えるように、玄関が広く川に向かって作られた家が結構あります。
大三角道路を越えたあたりからは、川が蛇行し、両岸にも高低差が目立つようになります。
神社やお寺があり、古い家並みは私が生まれた頃からありそうな感じです。
そして、その名も「境橋」に差し掛かった時、その橋の欄干にはセピア色の写真がはめ込まれていました。
小舟に乗って漁をしている写真やあさりなどを採っている写真、エンジンのない小さな漁船がたくさん泊まっている漁村の風景、魚の開きが干されている風景などです。
ああ、あの私が大好きだった漁村と同じだ。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなるような錯覚のまま、レンガづくりの遊歩道を歩きました。
写真だけでなく、ところどころに立てられた説明書きが、ここで漁をしていたことへの誇りを感じられるものでした。
たとえば、浦安町役場跡にはこんな説明がありました。
ここ浦安町堀江江古田にし三六番の一の地は、明治二十八年四月五日浦安村以来大正時代を経て、昭和四十九年十月三十一日まで浦安町役場があった所です。
この銅抜写真の役所庁舎は明治四十四年二月二十日に完成し、今の六階建ての庁舎に移転するまで使用していた古い庁舎で、当時としては極めてモダンな建物で、瓦葺平家和洋折衷造りで、浦安町の自慢の一つでありました。またこの位置は豊かで清らかな江戸川の流れ込む境川に沿って、役場のほか漁業組合、缶詰工場、貝むき場などが軒をならべ、魚貝や海苔を満載した船の櫓櫂のきしみは時代の移りと共にエンジンの響きと変わっていきました。
そしてこの七十余年の永い間汐の香りに育まれて、村政から町政へと自治のはなが咲き続けてきた由緒ある場所です。
今ここに往時を偲び碑を建て記念とします。
昭和五十二年十月
新橋付近には、境川についての説明書きもありました。
境川は江戸川の支流で本市の中央を西から東へ流れ、東京湾に注いでいます。
かつての境川は、長さ一・七キロほどの小さな川でしたが、昭和四十年(一九六五)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約四・八キロになりました。
江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家を建て、北側が猫実村、南が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
川の水は、昭和二十年ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
また、漁業を生業としてた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果たしていました。かつては、二十艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
しかし、昭和四十六年(一九七一)に漁業権が全面放棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の風景も次第に漁師町の面影を失っていきました。
平成十六年一月 浦安市教育委員会
しばらく歩くと境川西水門があり、夕日に水面が輝いている旧江戸川が見えました。
東西線浦安駅方面へ向かう小さな路地で佃煮屋さんを見つけ、自分へのお土産を買って帰路につきました。
「猫」を発見したことで、思わぬ歴史を知ることができた散歩になりました。
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