反動から中庸へ 5 <子どもという存在>

先日の記事で紹介した「利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり、両者の合流点は下流へ移動した」という一文から、まるで反動から反動を繰り返す社会を言い表しているようだなと思いました。


そして、「反動から中庸へ」というタイトルで書いた記事があったことを思い出しました。


最近、ずっと考えていたのが、わずか1世紀いえ半世紀ほどで、社会の中の「子ども」という存在が大きく変化したのだろうなということです。
自分が子どもだった頃のあいまいな記憶をたどり、東南アジアやアフリカの子ども達の状況と擦り合わせながら、社会がどのように変化してその中で子どもと言うのはどういう存在であり、どういう扱われ方をしてきたのか、行きつ戻りつ考えています。


<1960年代の子どもとは>


私には兄がいるのですが、私が小さい頃の記憶の中では、いつも兄についてまわって遊んでいました。
兄とその友だちが遊んでいる側にいたり、あるいは兄の背中に背負われている記憶がうっすらあるのですが、それはもう少し成長してから話を聞いてできた後付けの記憶なのかもしれません。
いずれにしても、私が幼児の頃の遊んでいる時の記憶には母の存在がないのです。


現在80代以上ぐらいの母の世代は、まだ兄弟姉妹の人数が多いので、子ども同士で子どもの世話までしていたのだろうから、兄が妹の世話をすることも母にとっては当然なことなのだろうと、その記憶を思い出すたびに考えていました。


その記憶の兄はまだ小学校に上がる前の5〜6才です。
きっと自分だけで遊びたいのに、妹を背中にくくりつけられたり後追いされてさぞ嫌だっただろうなと、ちょっと申し訳なさとともに思い出します。


まだ「母子保健法」(1965年)がなくて、子どもが「児童福祉法」(1947年)で守られ始めた時代でした。
私の母子手帳は、この児童福祉法によるものでした。



私の両親が子どもの頃にはなかった「児童福祉法・児童憲章・児童権利宣言」といった言葉や概念が広がり始めた時代に、子どもを育てるということは両親にとってどんな葛藤があったのだろうと思います。


父はもう答えを語ってくれませんし、母は母で私が子どもの頃の話を聞き出したそうとすると「認知症かどうか記憶力を試しているのか」と嫌がって、あまり話を聞かせてくれません。


両親の世代にとって子どもと言うのは、労働力であり家事の担い手であったのだろうというのが少し理解できたのが、1980年代から東南アジアで暮らした時でした。


続きます。




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