ベトナム料理を食べて帰宅して、テレビの録画一覧を見たら、ちょうど「ハノイ発夜行バス、南下してホーチミン〜ベトナム1800キロ縦断旅」が録画されていました。
なんという偶然でしょうか。
1週間前に録画予約をしていたことも忘れていたのでした。
1980年代半ば、インドシナ難民キャンプで働いていた時に、上司からベトナムに一緒に行こうと誘われました。
ドイモイ政策が導入される前のベトナムは、まだ旅行者は入国が厳しく制限されていました。当時働いていた難民キャンプの職員であれば入国許可が出るとのことで、「開放路線に変わる前のベトナムを訪れるのは今が最期だから」と誘われましたが、残念ながら日程が合わずに終わったのでした。
それから数年後ぐらいには、雑貨屋さんでベトナムコーヒーのセットが販売されたり、若い女性向けの雑紙で「ベトナム雑貨」の特集やベトナム旅行の話をよく見かけるようになりました。
ああ、私の見ていたベトナムとは違うベトナムを見ている人たちが出て来たのだと、その感覚の違いに戸惑いました。
<「ハノイから南下する」>
番組では、首都ハノイからホーチミンまで長距離バスと鉄道を使いフエへ、そして以前は南北ベトナムを分けていたベンハイ川を渡り、ダナン、ムイネーを訪れた後にサイゴン駅に到着して、10日感の旅が終わります。
きっと東南アジアの多くの地域も似ているのではないかと思うのですが、日本の30年間の変化に比べるとベトナムの都市部以外の暮らしの変化はゆっくりで、その番組に映し出される生活や人々の服などをみていると、まるで私が過ごしたあのベトナムからの難民の人たちのコミュニティにいるかのようでした。
まだ、一度も行ったことがないベトナム本国ですが、以前暮らしたことがあるような錯覚に陥ったのでした。
さて、ちょうど1年前の同じ頃に、NHKの「コウケンテツが行く アジア旅ごはん」が放送されたのですが、あの番組も「北から南へ」でした。
「首都ハノイ」から出発するのは、「首都東京から各地をまわる」と同じ感覚なのかもしれませんが、これさえも私にはなんだか戸惑いがあるのです。
というのも、私が接したベトナム難民は当時の南ベトナムから逃げ出した人たちでしたから、彼らにとっての首都は1975年以降もハノイでは決してなく、また名前が変えられたホーチミン市でもなく、サイゴン市でした。
北ベトナムでは愛された「ホーおじさん」の名前がサイゴン市に使われたことにも、南ベトナムの人には許しがたい気持ちがあるようでした。
そして1976年に南北ベトナムが統一されたあと、南ベトナム軍や米軍を支持した人たちは過酷な「再教育キャンプ」に送られた話の数々を、直接、難民の方たちから聞きました。
ただ当時、難民キャンプで出会った人たちは、南ベトナムでは比較的経済的に豊かな人たちの印象でした。
南ベトナム解放戦線を支持していた農民層の方たちは、また別の見方や考え方があることを読むと、あのベトナム戦争とは何だったのか、当時の私には理解できるものではありませんでした。
「難民の人たちの状況に心を痛めて行動することは、本当に意味があるのか」
「何か目に見えない大きなうねりの中で、自分の正義心を満たすだけではないか」
そんな問いに、当時は悩んでいたのでした。
<「風に吹かれて」>
ソマリアで何もすることがない長い夜の時間に、繰り返し聴いていたボブ・デイランのカセットテープは、インドシナ難民キャンプで一緒に働いていたアメリカ人の友人からもらったものでした。
ボブ・デイランについては社会に抵抗しているというイメージぐらいしかなく、そして当時の私は音楽には感情的にのめり込むほうでしたので、なんだか正義心をそそられてかっこいい歌ぐらいにしか受け止めていなかったのでした。
その友人からもらった英語の歌詞カードを読んでも、ほとんど意味をつかんでいなかったことが、最近になってようやく見えて来たのでした。
Wikipediaの「風に吹かれて」 のボブ・デイランのコメントを読むと、もしかしたらこの歌は鵺のような社会に抗っているのかもしれないと思ったのでした。
そのカセットテープをくれた彼は、若者があちこちの戦場にいかなければいけない国に住んでいたわけで、20代前半の彼がどんな思いでこの曲を聞いていたのか、私は何も理解していなかったのでした。
最近、歴史を立体的に理解する感覚が、ようやく少しだけ見えて来た感じです。
「事実とは何か」まとめはこちら。