難民についてのあれこれ 7 最初の難民「上陸」

大村線に乗って見ようと計画が決まり、1980年代からやり残した宿題が気になって「大村難民一時レセプションセンター」で検索してみました。

ネット上で公開されているものはわずかのようで、その中に「インドシナ難民に対するわが国の対応と公的および民間支援の実際」という研究ノートがあり、日本の難民受け入れの歴史がまとまっていました。

 

「はじめに」に以下のように書かれていました。

 日本には、難民条約に基づく難民として政府が認定した条約難民が、2017年末の時点で708名定住している。また、2010年から日本政府が受け入れを開始した第三国定住ミャンマー難民(平成29年までにパイロットケースとあわせて合計39家族162名が定住している(アジア福祉教育財団難民事業本部関連HPによる)。

 しかし、その難民定住の人数規模としては、インドシナ難民が、圧倒的に多いといえる。現在、わが国にはインドシナベトナムカンボジアラオス)難民、及び呼び寄せた家族を含め、約11,000人定住している。こうした難民の定住受け入れは、戦後のわが国にとって初めての大規模な外国人受け入れであり、「日本政府の『在日外国人政策』に強烈に影響を与えた」(川上2005)といわれている。

 

 

「難民条約に基づく難民として政府が認定した条約難民が、2017年末の時点で708名定住」

1980年代半ば、インドシナ難民キャンプで働いていた頃はまだ「日本に定住する」ことが非現実的な話に感じていたことを考えると、この数字でも、時代は変わったといえるのかもしれません。

 

この10年のあいだに、難民キャンプで生まれ、ご両親とともに日本に定住した方と、ご両親が難民として日本に定住し、ご本人は日本で生まれ育った方に出会いました。

たまたまお名前を見て、私の方から難民キャンプの話をしたのでその方々の生い立ちを知ったのですが、二世の方が身近になったぐらい日本に定住していたのだと思いました。

 

ところが「わが国にはインドシナベトナムカンボジアラオス)難民、及び呼び寄せた家族を含め、約11,000人定住している」とあるので、すでに亡くなった方は含まれていない数字にせよ、この出会いはかなり奇跡的なものだったのかもしれませんね。

 

1980年代半ばに難民キャンプで働いていたときには、連日、ひとつのキャンプからだけでも数百人規模でアメリカやヨーロッパの国々へ定住する人たちを見送っていたので、やはりインドシナ難民の方々にとって日本は「近くても遠い国」に感じていたのでしょうか。

当時は、難民の人たちが飼っていたへびも難民に認定されて定住受け入れされるぐらい、日本と他のアメリカなどの受け入れ国の対応には我と彼の温度差がありました。

 

 

*1975年、9名が日本に「上陸」*

 

日本で最初に難民の方が来たのはいつだったのだろうと気になったままでしたが、この資料の「1975年以降:難民の上陸開始と『受け入れ』の始まり」にまとめられていました。

 

いわゆる「サイゴン陥落」によって、南ベトナム北ベトナム勢力によって制圧されて日がまだ浅い1975年5月に米国船籍の船に救助されたベトナム難民9名が千葉港に上陸した。これがわが国におけるベトナム難民の初上陸であった。

 

この米国船籍の船に救助されたボートピープルの方々の話は、漠然とですが記憶にあります。

 

ただし、あくまでも「上陸」「滞在」であって、定住という考え方は政府にもそしておそらく国民のほとんども持っていなかったであろう当時のことが書かれています。

 この9名に関しては国連難民高等弁務官事務所(以下、UNHCR)が 社会福祉法人日本国際社会事業団(ISS:International Social  Services)に対し、宿泊施設の提供を依頼し、修道院を持つカトリック教会3カ所にて宿泊を受入れることになった(社会福祉法人日本国際社会事業団 1998)。このように宿泊の準備を緊急で行わなければならないほど、わが国の難民上陸は全く想定外のものであった。この後、引き続き難民が上陸するが、政府は難民の「入国」及び「滞在」において以下のスタンスで臨むことになる。

 最初に「入国」に関してであるが、この時期、当時の外国人出入国に関する「出入国管理令」では難民は想定されていないため、日本籍の船舶に救助されて到着した場合は「上陸特別許可」、外国船籍が救助してきた場合は「水難上陸許可」により、一時的な滞在を認めることになった。こうした許可の意図としては、あくまで難民の一時的な庇護を目的とした上陸を許可するもので、その後は第三国に出国することを大前提としたものであった(内閣官房インドシナ難民対策連絡調整会議事務局 1998)。

 次に「滞在」に関してであるが、「滞在」に関しても、政府による難民滞在施設等はなく、上陸したインドシナ難民は民間団体が用意した一時滞在施設において、第三国出国まで滞在することになる。民間団体で最初に積極的な支援を開始したのは「カリタス・ジャパン」とその傘下にあるカトリック教会であった(アジア福祉教育財団難民事業本部 1995)。そのこともあり、前述した日本国際社会事業団(ISS)は一時滞在施設に関わる宿泊施設の斡旋を中止することになった。その後、UNHCRと民間の宗教法人等の諸団体が難民の受入れや滞在中の生活支援を行う、一時滞在施設の運営を開始した。運営に参画した団体はカリタス・ジャパンを始めとして、1977年より立正佼成会天理教救世軍日本赤十字社であり、費用負担はUNHCRが行うことを前提とした。こうした一時滞在施設は1983年1月において、36施設を数えるに至った(カトリック難民定住委員会 2001)。一方政府は、インドシナ難民の定住受入れに関して、消極的な姿勢を取り続け、いわゆる「ボートピープル」が増加している状況にも関わらず、具体的な公的支援は1979年まで行われなかった。

 

その後、1979年に姫路定住促進センター、1980年に大和定住促進センターができ、1982年にこの大村難民一時レセプションセンターが開設されたようです。

 

本当に当時は、「難民」と聞くと「黒船がやってきた」という気持ちに近いかもしれないと思うような社会の雰囲気だったように感じました。

 

大村難民一時レセプションセンターができたことを耳にした頃は、九州だから地理的に東南アジアと近いからという理由なのかと思っていたのですが、もしかすると当時難民関連の話題でよく耳にした「カリタス・ジャパン」との関連が深い地だったことが理由だったのでしょうか。

 

 

 

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