ご両親が難民として日本に定住し、日本で生まれ育った方と出会いました。
私が難民キャンプで働いていた頃の同世代の子どもたちが、30歳前後になる時期なのかと感慨深いものがありました。
難民キャンプで働いていた1980年代半ばは、欧米各国の今で言う「人道的援助疲れ」が見え始めていた頃で、経済難民という言葉が聞かれていました。
通訳ボランテイアとして仲良くなった難民の人たちの話を聞くと、「強制送還されれば殺されるか、過酷な再教育キャンプに入れられるかのどちらか」という話が多く、祖国で安全に生きられるのであればあえてボートで脱出したりはしなかっただろうと思えました。
当時もそして今に至るまで、私自身がまだあのインドシナ難民問題とはなんだったのか全体を理解できていないし、記憶も曖昧になっていく中で、ひとつ気になっていることがあります。
当時、予防接種や性病・結核・ハンセン病の治療プログラムを行い、第三国へ定住するための健康診査やその書類を作成することが仕事でしたから、キャンプ内全員の健康状態を把握する立場にいましたが、今、思い返しても、「障害」を持った人はほぼいなかったことです。
ごくごく稀に、戦闘で片足切断したなどのために松葉杖が必要な方がいたぐらいでした。
当時はまだ精神疾患の分類も今と比べると格段と少ない時代でしたが、分裂病(現在の統合失調症)と診断された人も記憶にないですし、明らかな知的障害や身体障害を持った子どもも見ることはありませんでした。
おそらく祖国に残されているのだろうと。
難民として出国することができなかった人たちは、どれくらいいてどのような状況だったのか。そして何を思っていたのだろう。
当時はそのことを考えると、自分の中の正義感の感情で千々に乱れそうになっていたのですが、蜘蛛の糸の話は現実にどこでもいつでも起こるのだと思ったのが、東日本大震災や原発事故の時の混乱でした。
あの状況で誰を助けるか。
医療従事者の一人として自分だったらどうしていたか、また高齢者施設に両親が移った時期でしたから家族としてどう考えたらよいのか。
そして、もちろん私自身も難民にあるいは避難民になれない状況も起こりうるわけで。
「あなたたちだけは助かって」と言えるだろうか。
答えがない問いであり、理不尽さに耐えるしかない。
でも何か考え続けることに意味があるのかもしれない。
目の前の彼女も容貌はその国の人なのに、日本で生まれ生きていることだけでも、十分に理不尽なことですから。
「難民についてのあれこれ」まとめはこちら。