難民についてのあれこれ 4 <経済難民>

こちらの記事で紹介したJBPressの「欧州移民喜々の冷たい現実」(2015年4月22日)という記事に「移民」「移住者」「難民」「不法移民」という言葉が混在していて、釈然としないと感じたことを書きました。


そして、もしかしたら「経済難民」という言葉をあえて避けているのではないかと感じました。
もし避けているとすれば、何が理由なのかはわかならいのですが。


1980年代半ば、私が意気揚々としてインドシナ難民キャンプに「人道的援助」に参加するために赴任した頃、すでにインドシナ難民問題は経済難民をどうするかという局面に移り始めているのを感じました。


たとえばWikipediaベトナムからのボートピープルには以下のようなことが書かれています。

ベトナム戦争サイゴン陥落以降に旧ベトナム共和国から数多くの難民が国外に亡命した。ボートピープルの多くは都市部で商業を営んでいた華僑や軍人であり、その他南ベトナム政府関係者や旧ベトナム軍関係者とその家族資産家、地主、であった。香港・マカオの難民収容所の7割は中国系ベトナム人であった。
(中略)
1980年代に入ると、ボートピープルベトナムに帰国した場合UNHCRから帰国手当が支払われ、こうした手当を目的に出国する経済難民が増えた。


これを読むと、事実はもう少し違うのではないかと、インドシナ難民キャンプで実際に見聞した経験から感じる点も多いのですが、北ベトナム側も人口を減らすために積極的にボートピープルを送り出す側であったという見方があったことに、いろいろと考えさせられます。


ボートピープルの背景>


Wikipediaの「ボートピープル」の「背景」には、「華人」であることが国外脱出の理由のひとつであるように書かれています。

社会主義化に伴う資産制限、国有化、また中越戦争による民族的緊張により、1978年前後をピークに大量の華人が移民もしくはボートピープルとしてベトナムから国外に流出した。

こうした大量のベトナム系中国人が国外に脱出した背景には、中越関係悪化の中、ベトナムの経済や流通の中枢を華僑がおさえていたことに対して新政府が危機感をつのらせ、組織的にこれを追放したことがある。ドイモイ以降、ベトナムに帰還する華人も増え、華人人口は復調傾向にある。

私が赴任した難民キャンプがある国も、その国の商業や経済の中心は華僑の人たちが多いことを現地のスタッフからたびたび耳にしました。
ベトナムも同じような雰囲気なのだろうと想像していました。


ただ、私がインドシナ難民キャンプで働くことになった1980年代半ばには、中国系のベトナム人が脱出したあとの次の時期に入っていたのではないかという印象がありました。
実際に接したベトナム難民の人たちは、中国系の経済的に豊かだった人たちと借金をしてまで脱出してきたという普通のベトナムの人たちに大きく分けられるような印象がありました。


私には全体像がわかるような資料は手に入らないので、あくまでも印象ですが。


あるいは「背景」の中に書かれている再教育キャンプを初めとした、南ベトナム軍を支持していた人たちへの思想的な圧迫から逃れたいという人たちが増えていたのではないかと思います。

また、ベトナムでは政府によって、約10万人にのぼる南ベトナム政府及び南ベトナム軍関係者らに当局への出頭が命ぜられ、再教育キャンプに送られ、階級・地位に応じてそれぞれ短いものは数週間、長いものは数年以上をキャンプで過ごした。


私の担当だった予防接種プログラムの通訳ボランティアをしてくれていた20代の男性も、再教育キャンプを逃れるために、南シナ海で死ぬ可能性が高いボートピープルになる方を選択したと話していました。


<「ボートピープル」から「経済難民」へ>


私が難民キャンプで働いた1980年代半ばは、長期化するインドシナ難民問題に先が見えない閉塞感と難民を受け入れる国々に「援助疲れ」が募っていた時期でした。


たとえば、Wikipediaの「ボートピープル」の「避難ルート」には以下のように書かれています。

1979年7月、香港が無条件で難民を受け入れる「第一収用港」となってから、ベトナムボートピープルは圧倒的に香港に向かうようになっていた。
香港では最終的に20万人以上が受け入れられ、難民は20年以上にわたって香港の深刻な問題となった。経済的負担や犯罪の増加、難民による暴動などが香港人にとって大きなマイナスとなったが、香港政府は始終温和な政策をとっていたため、最終的な決着は2000年までつくことがなかった。


当時、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から発行されていた機関紙に、しばしばこの香港の難民キャンプの過密化と周辺住民との摩擦などが書かれていた記憶があります。
それとともに、その大半は経済難民であり本国への自主帰還を促す政策に変換していることが書かれていました。


香港以外の難民キャンプに収用されるボートピープルは「経済難民」とは呼ばれなかったのに、なぜだろうと当時はその背景がよくわかりませんでした。
ただ、香港を目指した人たちは南ベトナムからではなく、北ベトナムからの人たちが多いということは聞いたことがあります。


南ベトナムから脱出した人たちがうまくいけばアメリカなどへ定住していることが、北ベトナムの人たちの背中を押したのでしょうか。


ところがたどり着いた香港では「経済難民」と呼ばれ、本国への自主帰還を拒めば強制送還の可能性もありました。
その先に待っているのは、再教育キャンプと同じ恐怖です。


難民とはいったいどのような状況なのか。
そして本人たちの意向に関係なく、人道的な対応が必要な難民、経済的難民、不法移民と呼び変えられることをどう思ったのだろう。


呼ぶ側の気持ち次第のところがある、この「難民」という言葉の難しさを感じています。




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