散歩をする 13 <大横川親水公園>

向島百花園で過ごしたあとはどこを歩いてみようかと地図をながめていたら、墨田区を南北に貫くように作られた親水公園が目に入りました。
大横川親水公園です。


大横川の流れている一帯は付近にあった工場などからの地下水の汲み上げにより地盤沈下が激しい地域であった。これにより、低い土地では川から水が流れると浸水する地域があったため、大横川の一部を埋め立てて親水公園として整備されたものである。公園としては1993年4月1日に開園した。河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わった。


地図をながめていると、この墨田区江東区あるいは江戸川区には、こうした2km近い大きなというより長くてまっすぐな親水公園があることがわかります。


玉川上水神田川のように、都市化で住宅用地や道路建設のためにそれまでの河川が暗渠化されているのかと思っていました。
それにしては、地図で見る限りは広大な面積ですし、真っすぐに続く用地を道路にしなかったのは太っ腹な計画だなと感じていました。


この地域では、もっと別の理由があったのですね。


平成18年に東京都環境局が出した「東京都の地盤沈下と地下水の現況検証について ー地下水対策検討委員会検討のまとめー」がネット上で公開されていました。


その「はじめに」に、以下のように書かれています。

東京都内には、地下水の過剰な汲み上げによって地下水位が著しく低下し、昭和30年代から40年代にかけて、1年間に最大23cmを超える地盤沈下を記録した地点があるなど、激しい地盤沈下を経験した。そのため、法律や条例による揚水規制を強力に押し進めてきた結果、地下水位は上昇し、地盤沈下は沈静化しつつある。


もう少し詳しい事がその報告書の「東京都の地盤沈下に経年変化」(p.4〜p.5)に書かれています。

 図−3によれば、大正初期には早くも地盤沈下が観測され、江東区南砂では、明治25年の水準測量開始時と比較すると、昭和初期には既に1m以上沈下していた。
 その後、第二次世界大戦中にかけて産業活動の発達により、低地部の工業地帯を中心に地盤沈下が進行した。しかし、戦争末期の空襲により工場等が消失し、揚水量が急激に減少した結果、地盤沈下の進行は戦争末期から終戦直後にかけて一時沈静化した。
 戦後の復興とともに、産業活動が再開された結果、地盤沈下が再び進行しはじめたため、高度経済成長期(昭和30〜40年代)に地盤沈下はピークに達した。昭和43年には江戸川区西葛西の水運指標において、都内最大の年間沈下量23.80cmが記録された。
 なお、都内における最大累積地盤沈下点と沈下量は、江東区南砂2丁目で、大正7年の測量開始以来、4m50cm以上のを昭和50年代半ばに記録した。
 その後、法律や条例による揚水規制を強力に推し進めた結果、区部においては昭和40年代後半から、多摩台地部においては昭和50年代から、地盤沈下が沈静化傾向を示し始めた。なお、主要水準指標8地点のうち、多摩地域を除く、近年僅かではあるが隆起傾向がみとめられるが、これまでの累積沈下量と比較すると、隆起量は極めて小さく、元の地盤高に回復することは不可能である。
 平成7年以降、現在まで年間2cm以上沈下した地域はなく、平成15年は12年ぶりに年間1cm以上沈下した地域がなかった。

この報告書は、散歩から戻ってから読んだのですが、大横川親水公園から清澄白河駅まで歩いたときに見た風景の理由だったのかもしれません。



大横川親水公園の南端まで歩くと、そこで突如暗渠化された部分が終わります。
さらに大横川沿いを歩くためには、一旦、緑四丁目交差点から橋を渡って江東区へ入る必要があります。
これが堅川を渡る橋で、大横川と交差する部分を通るのですが、そこからの風景は驚きでした。


隣接する住居の1階部分のほうが、竪川と大横川の交差する地点より低いのです。



1980年代から90年代ぐらいにかけて、都内の地盤沈下のニュースは目にした記憶があるのですが、自分にとって切実ではない問題だったのでしょう。本当に記憶の端っこに残っている程度です。


長い時間をかけて、地盤沈下への対応をしてこられた方々がいたからこその、あの風景だったのかと、また自分が知らなかったことが少しつながったのでした。




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