発達する 19 <老い支度>

「短期・中期・長期目標が大事」ということを意識してきたので、私は20代の頃から「どう死ぬか」が最大の目標のようなところがあります。


何の話だったか、明治生まれの高齢の女性が身辺整理をした翌日に亡くなったといった潔い話に、20代の頃から惹かれていました。
海外旅行などで家を空ける前には、徹底的に掃除と片付けをして「いつ死んでもいいように」と準備しておかなければ気が済まないところがあり、友人に話すと呆れられていました。
40代になった時には、いつでも書き込めるようにとエンディングノートも購入しました。


周囲に亡くなる人がほとんどいなかったので、人がひとり死ぬ時にどれだけ膨大な手続きや片付けが発生するのか、誰がそれをするのかなどあまり全貌がつかめないまま50代まで来ました。


70代半ばまでは大きな病気をすることもなく生きてきた両親なら、周囲で亡くなった方々も多く、いろいろな人の経験話からそれなりに老い支度を考えているのだろうと思っていました。
ところが、自宅での生活が回らなくなって施設が選択肢になった時点で、両親共にほとんど、自分の老いや死について考えていなかったことがわかりました。


「短期・中期・長期目標が大事」と言っていた父も、お金などのことはほとんど母任せだったまま、認知症で判断力が無くなりました。
母も母なりに工夫をして貯金や保険を管理していたのでしょうが、出てくるのはいくつもの通帳で、本人さえ何がなんだかわからなくなっていましたから、半身麻痺の母を連れて口座をまとめたりすることに兄弟と苦労しました。


「自宅があればなんとかなる」と思っていたのでしょうが、市街地から離れた家で身体が動かなくなったときの生活は考えていなかったようです。
いえ、10年ほど前に市内の交通の便がよい借家へ引っ越すことを勧めたのですが、「自分の家」への執着が強かったのでした。


昨年夏に父が亡くなり、人ひとりが死ぬということにはこんなにたくさんの手続きが必要なのかと驚いています。
わずかの貯蓄や生命保険のために父の出生時からの戸籍謄本の取りよせやら、家の解体・手続きのための書類や支払い、それらの手続きのための諸経費や交通費、そして何よりも相当の時間がとられました。


そして残された母の住民票変更に伴う諸手続きでも、市役所やら銀行やら、何往復したことでしょうか。
少し落ち着いたと思ったら、母が体調を崩し、サービス付き高齢者住宅では生活できないレベルになったため、また新たに施設を探しなおすことに。
(ああ、だから高い入居金を払って、兄弟の家が近い医療体制の整った施設を選んだのに)」という愚痴がでかかっては、なんとか飲み込んでいます。


介護保険のシステムもめまぐるしく変わるので、私たち世代でさえ理解するのは大変で、80代の母に理解しろとはとても言えないけれど、せめて身体が動かなくなったときのことを考えてそれなりに覚悟をして、身辺整理をしておいてくれたら、私たちの負担も少なかったのにと思うこともしばしばです。
現実に、身体が動かないことに直面しているのに、それを認められないし受け止められない。


そんな老いの頑さを見るにつけ、こちらの記事で紹介した「老年期の発達課題」の以下の部分は大事だと痛感しています。

老年期は衰退や死を覚悟し、職業からの引退などをとおして自己の存在感や価値を見失う。人生の最終段階で直面する精神的危機である。
人間の行動には、学習によらないで自然の結果として成熟していくことはまれであると言われている。老年期においても、生活していく中で学ぶことができる。したがって、生涯におけるこれらの課題をマイナスにとらえるのではなく、自分の人生の完成に向けての課題ととらえ、前向きに対応していけば、老年期をその人らしく納得のいくものとすることができる。


そういえば、ちょうど1年ほど前に高齢者の定義を75才以上にするという話題がありましたが、あれはどうなったのでしょうか。
「自分はまだ若い、自分はまだ年寄りではない」と思い込むよりも、むしろ50代頃から老いについて学び準備をする方がよいのではないかと、両親を見てて思います。




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