水のあれこれ 76 <井戸>

小石川植物園のパンフレットに、「旧養生所の井戸」についてこんなことが書かれています。

小石川養生所は貧困者のための施療所で、町医者井川笙船の意見により、享保7(1722)年につくられ、明治維新の時に廃止されるまで続いた。この旧養生所の井戸は現在も残っており、水質がよく、水量も豊富で、大正12(1923)年関東大震災の時には避難者の飲料水としておおいに役立った。

最初に井戸があることを知った時には、この高台なのに、掘れば水がでるという予想をどうやってたてたのだろうと驚きました。
その高台から崖の下の池までの高低差はおよそ7〜8mぐらいですが、その池が湧水を水源にしているのを見て、理解できました。
きっと、昔の人もこの高台の下には豊かな水源があると想像したのだろうと。


都内を散歩していると、けっこう井戸の痕跡をみることがあります。
私が幼児だった頃、武蔵野台地に住んでいたのですが、その家にも井戸がありました。
深い真っ暗な底は、子供心にも恐ろしい闇でしたし、ある程度の年齢になるまでは近づいてはいけない場所でもありました。


関西の祖父母の家にも、井戸があった記憶があります。
ガラガラとバケツで水をくみ上げて、野菜や農機具を洗ったり、夏は子どもの行水に使っていました。
最近になって、あのあたりは新田開拓によってできた地域であり、江戸時代は海底であったことを知りましたが、そんな場所でも井戸を掘れば真水が出ていたことに、改めて驚いています。


井戸というと、何メートルも地下へ真っすぐ掘った穴を思い浮かべるのですが、世の中にはいろいろな井戸があることを知ったのが、玉川上水に関心を持った1990年代初頭に訪れた羽村まいまいず井戸でした。
螺旋状の階段を下りて行くと、底にわずかの水がたまっている井戸でした。
水たまりのような水を得るのにこんなにも苦労するのかと、当時関心があった途上国援助と重ね合わせながら印象に残りました。


私が行き来していた東南アジアのある地域でも、住民にとって井戸は喉から手が出るほど欲しいものの一つでした。
それがあれば、重い水を何度も何度も運ぶ労働から女性や子どもが解放されます。
井戸掘りは、援助プログラムの中では人気の一つでした。


ただ、掘ればよいというものではなく、井戸によってあらたな水争いが起きたり、地域によっては水質が悪く疾患の原因にもなった話を聞きました。


「水質が良く、水量も豊富で」
たったこの一行ですが、その重みがどれほどのものであるか、井戸についてのいろいろな記憶が甦って来て、ちょっと冷や汗がでるような感覚に陥るのです。




「水のあれこれ」まとめはこちら