行間を読む 171 「われわれは〇〇がなくても生きていけるが、△がなければ生きていけない」

もし玉川上水が失敗していたら今頃武蔵野台地はどうなっていただろうと思いながら武蔵野台地について書いた記事を読み返しましたが、その中の引用に「われわれは石油がなくても生きていけるが、水がなければ生きていけない」という一文がありました。

 

「東京湧水 せせらぎ散歩」からの引用です。

2017年頃にこの本を書店で見つけて、目の前が開けるように都内の水の流れを追い始めました。水源から河口まで歩いてみようと思ったきっかけにもなっています。

 

もし20代の頃にこの箇所を読んだら、きっと「そうだ石油がなくても生きることができのに」とかなり過激な方向へと向かったかもしれません。

実際に、東南アジアやアフリカで少しサバイバル的な生活を経験したことで、豊かさとか貧困とかへの罪悪感からいろいろなことを試したぐらいですからね。

東南アジアへ行くにも石油がなければ行けなかったことには、目をつぶっていました。

 

この本を手にして読んだのは50代半ばで、湧水のある場所の地形や水質調査、そして繰り返し正確に湧水量を観察し測定したデーターに基づいていることが印象に残りました。

「われわれは石油がなくても生きていけるが」の箇所は、「水がなければ生きていけない」の強調のためだとさらっと読み流すことができました。

「程度の問題」というあたりでしょうか。

 

 

1937年(昭和10)年生まれの著者の年代であれば、今からは考えられないような物が少ない時代の経験があることでしょう。その後の驚異的な変化がどれだけ化石燃料に依存する時代に入ったかを身をもって体験された世代とも言えます。

さらに、自分の証明でさえ、通信技術が常時必要になるかもしれない時代ですから、もはや「石油がなくても、電気がなくても生きていける」とは言えない時代になってきました。

 

この一文をどう捉えるか、額面通り受け取ってしまわないことも大事だなと思いながら、そうだこれが数学的な思考とも言えるのかとおぼろげながら見えてきました。

まあ、相変わらず頭がごちゃごちゃしているので、「真」が見えてこないのですけれど。

 

 

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