行間を読む 112 地の塩のような文章

散歩をするようになって、歩きながらいろいろと考えています。

その中でも、小名野ケ谷の歴史を書き残そうとされている文章などに、ああこれもまた地の塩というのだろうなと思うようになりました。

 

深大寺用水東堀を訪ねて歩いた最後は、吉祥寺病院の脇に出ました。吉祥寺病院という名前は以前から知っていたのですが、その病院の歴史も知りたくなり検索したら、なんと深大寺用水につながりました。

 

ここが深大寺用水東堀だろうと見当を付けて歩いた道は、現在の東八道路と吉祥寺病院の北側の道の間にあったのですが、よく見ると吉祥寺病院の方が一段下がっています。昔はどんな感じだったのだろうと思いながら歩いた場所の説明がありました。

吉祥寺病院の広報誌「じんだい」の第30号(2017年10月)に、「深大寺道をゆく〜その⑤〜」というエッセイがあり、その中にこのあたりの深大寺用水について書かれていました。

 

 (前略)そうです。吉祥寺病院の前の細道は、古道「深大寺道」の今の姿だったのです。古道だけに、道端にはこんな昔の石仏がいらしたのです。

深大寺道の一方の起点=)深大寺城が湧き水溢れる地にあったことと、深沙大王や青渭大神の御縁なのか、我が吉祥寺病院は、今でも旧深大寺村の「水晶水」を(病院敷地内の井戸水として)使わせて頂いています。

 前にお話ししたように、深大寺道は、室町時代から戦国時代にかけて小田原の北条氏と関東の覇権を争った扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏が、本拠の河越城と北条氏に対峙した出城としての深大寺城を結ぶべく開いた軍道です。

 

池ノ上神社から三鷹通りをバスで通ると、諏訪神社の手前で、北へと別れる道があります。それが深大寺道のようで、その道の歴史とともに周辺地域の歴史や生活、そして川や湧き水などについても8回に分けて書かれています。

 

そして深大寺用水東堀跡をたどって見つけた、「東京都水道局・野崎一号水源」についても書かれていました。

 ここで、四つ角の右前方(北西側)に注目してください。道沿いの所がドンキホーテとは別の区画になっていて、近寄ってみると「東京都水道局・野崎一号水源」というプレートが。

 夏の日(前回のこと)に調布市の水源地の脇を辿りましたが、ここでは三鷹市の水道水も河川水より地下水の方が多く(約60%)なっています。もっともここの深井戸は深大寺用水とは無関係で、昭和の世に掘られたものです。

 深大寺用水は、吉祥寺病院の案内板の立つこの辻でT字形に東西に分かれていました。「野崎一号水源」側、真っすぐ武蔵境通りに向かう方が深大寺用水西堀、背後の吉祥寺病院の方は東堀で、このT字形の場所を、深大寺用水の「水分かれ」といいます。

 

  深大寺辺りが大昔から湧き水の豊かな里だったことは、これまでにお話ししました。この辺りの農民は、深沙大王を始めとする水神様の神通力を賜ってか、後世にも亘って農業用水に苦しむことを知らずに暮らしていました。ところが1855年安政の大地震入間川(いりまがわ)の水源が涸れ、深大寺村の水田地だった「野ケ谷田んぼ」(現在の深大寺東町4~6丁目辺り)の耕作ができなうなってしまいました。江戸時代はそれでも税を減免されていましたが、明治政府は休耕田に対しても課税したので、困り果てた村民たちは、何とか耕作を再開しようと、1871年5月、僅か11日の間に「深大寺小学校発祥の地」の碑にもお名前があり後に(神代村初代)村長となった富沢松之助を先頭に、なんと村人(成人男子)全員の手で野崎村(の玉川上水梶野新田分水)から金子村(の野川)までを掘り進み、玉川上水の分水として「深大寺用水」を拓いたそうす。ですから深大寺用水の流れには、深大寺村の村人全員の心意気が溢れていたことでしょうね。そしてその皆さんの心意気は、2年後の1873年、弘道学舎(現・深大寺小学校)の開校へとつながってゆくのです。

 

水や道をたどると、こうしたその地域の歴史や生活を知る手がかりになる記録に出会います。

もちろん、正確な記録かどうかは慎重に見極める必要があるのですが、 その地域の変遷を記憶されていたり実際に歩いて書かれたものであると、ただ「知っている」とは違う文章の奥深さを感じるようになりました。

 

こんどは「深大寺道」を歩いてみたくなりました。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら