専門性とは 2 <正確に記憶する能力が優れていること>

1970年代後半、私が受験を目前にしていた頃は共通一次テストが導入された時期でした。
マークシートの塗り間違いだけで一生を棒に振る可能性と、偏差値で志望校が振り分けられて合格率をあげることに重点がおかれてしまったようなむなしさ」を感じていたことを、こちらの記事で書きました。


さらに看護学校卒業後、医療というのはその偏差値が最も高い医師とともに働きますから、常に「頭が良い集団と頭が悪い集団」に見られているような現場の葛藤がありましたし、当時はまだ女性医師がごくわずかでしたから社会的性差の葛藤など、言葉にならない想いがありました。


ですから長いこと、この偏差値で人の能力を図る方法については批判的に見ていました。
詰め込みの知識だけで人間の能力の何がわかるのか、と。


<膨大な知識を正確に覚えて伝える層が必要>


数年間の看護師経験のあと、80年代終わりの頃に助産師になりましたが、この頃から医療は大きく変化して来た印象をこちらの記事の冒頭のように書きました。
診断・治療技術や医療機器がどんどんと進歩しただけでなく、インフォームド・コンセントエビデンスという言葉とともに、医師と患者あるいは医療スタッフとの関係が大きく変化しました。
あるいは、標準感染予防対策の導入も大きな変化のひとつでした。


そして、医療安全対策といったリスクマネージメントを理解することが医療従事者には必須の時代になりました。


学生時代から数えると40年ほど医療の世界で働いて来たのですが、医療の急激な変化とともに私の医師に対するイメージがだいぶ変わりました。
最近では両親の入退院などを通して、家族の目でも医師について考える機会が増えたのですが、その診断に行きつくまでの膨大な知識にただただ圧倒されています。


ずっと働き続けてきた周産期も診断や治療方法がどんどんと変化し、そして母子二人の救命救急にいつなるかわからない出産に責任を持つための正確な知識は、一緒に働いていて圧倒されるものです。


「わかった」と生半可に思い込む私のようなレベルの人では、絶対にこの重い責任は負えないことでしょう。


偏差値で頭が良いかどうかをふるい分けているというよりも、あの高校時代の神童のような同級生のように正確な知識をぱっと記憶できる能力が、気が遠くなるような観察の積み重ねによって生まれる専門用語を正確に捉える能力のふるい分けになっているのだ、と少し理解できてきました。


ところで、あの同級生は今頃どうしているのでしょうか。
「昔の神童もただの人」と揶揄されがちですが、自分の関心のある分野でコツコツと正確に知識を増やしているような気がします。
地位とか名誉とかよりも、純粋に何かを極め続けて。


医師に限らず、さまざまな職種で正確な知識を記憶できる人たちがいるからこそ、本質的な普遍的な何かが次の時代へと引き継がれているのかもしれないと、偏差値について考え直すこのごろです。




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