散歩をする 74 <昔、海底だった>

最近、後で思い出すとヒヤリとすることや見ているはずが見ていないことに気づいて、こんなことも知らないのに偉そうに生きてきたのかと、ドキリとすることが増えました。


先日も、首都圏外郭放水路の資料館で「え〜知らなかった!!」と驚いたことがありました。
関東平野は大昔は海底だったことです。
一部は海底だったことは古い地図などで見たことはあるのですが、前橋あたりまで海底だった時代があって、それを「古東京湾」と呼ぶことが書かれていました。


外郭放水路を掘削したときの地層の様子が展示されていて、その春日部辺周辺も海底だったことがわかります。
中学とか高校でもしかしたら習ったのかもしれません。でも、関東ローム層についても私が子どもの頃にまとめられ始めたようなので、関東平野の歴史は学んでいないのかもしれません。


高低差がない理由は、大昔、海底だったからと言えるのでしょうか。


「資料:第四世紀の日本列島−2  関東ローム層関東平野」という資料が公開されていて、こんな説明がありました。

海から生まれてまだ日も浅い関東の臨海沖積地の沖積層は、それ故にまだ未固結の泥・砂であり、厚い所では40cmにも達する。そのような場所に置いて、沖積層の収縮にもとづく地盤沈下、地質災害を受けやすい軟弱地盤の問題が発生している。この問題は、沖積層地盤の問題であるから東京下町に止まらない。千葉・埼玉各県下の沖積地、そして関東以外の各臨海沖積平野のある場所、例えば名古屋・大阪・新潟等の臨海平野共通の問題である。


「海から生まれてまだ日も浅い関東の臨海沖積地」。
専門的な視点ではこう表現されるのですね。


もうひとつ、同じ資料のようですが「関東堆積盆地−3  古東京湾」の最後の方にこう書かれています。

こうして古東京湾は、ほぼ全面的に干上がり陸化して消滅する。前述の2大沈降地のうち、春日部市付近はほぼ堆積が進んだが、現東京湾の北部はおそらく海域のまま残されていたのであろう。利根川荒川水系は現東京湾に、また鬼怒川・霞ヶ浦水系は東の鹿島灘方面に河口を求めていったものと思われる


「古東京湾」そして「利根川荒川水系は現東京湾に」という一文から、先日の利根川と見沼代用水がどれだけすごい江戸時代の土木事業だったのかに驚かされます。
Wikipedia見沼代用水の「建設背景」の冒頭の部分の重みが、違って見えてきました。

江戸時代初期、関東郡代であった伊奈忠治は荒川流域下流の治水や新田開発を目的として、現在の元荒川を流れていた荒川を入間川へ付け替える工事を行った。同時期に、利根川も流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業が行われており、これらの川の付け替えは、元の流域周辺の水不足を招く恐れがあった。そこで、周囲の灌漑用水を確保するため、1629年、伊奈忠治は、天領地浦和領内の川筋(現・芝川に当たる)をせき止める形で、長さが約870m(8町)の八丁堤(八町堤とも書く、現・埼玉県さいたま市緑区の大間木地区付近)と呼ばれる堤防を築き、見沼溜井(三沼、箕沼溜井とも書く)を作った。


利根川東遷事業も言葉としては知っていたのですが、これは人が住むのには過酷だった関東平野に人が暮らせるようになるための大事業だったのですね。


最近、水にある風景に惹かれて 川沿いを歩くようになったのですが、実はかつて海底であったところを散歩しているわけで、また次々と新たな関心が広がっていきます。
ただ、私には手も足も出ないほど専門的な知識の壁は厚いのですが。




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