水のあれこれ 198 瓦葺掛樋跡

瓦葺掛樋跡に、上尾市教育委員会による説明板がありました。

2017年(平成29年)に地区東端に所在する「瓦葺掛樋跡」が市の史跡に指定され、2018年(平成30年)12月に設置されたもののようです。

 

瓦葺掛樋跡(かわらぶきかけどいあと)

 

 「瓦葺懸樋」は見沼代用水の重要構造物の一つで、瓦葺の地で、見沼代用水と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(ためい)(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以降この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々腐食が生じ、毎年のように修理が行われ、十年以内の年限で架替も必要であったとされる。

 現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。

 見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越(ふせこし)へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流量不足などのために廃止され、綾瀬川の下を潜る伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立合橋の再建に伴い煉瓦積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。

 なお、現存する煉瓦は上敷免(じょうしきめん)村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。

 

Wikipedia見沼代用水の「設計および測量」に「干拓前の見沼溜井」の図がありますが、瓦葺掛樋はその北西の端に近い部分で、そこから広大な見沼溜井を挟むように東縁と西縁に分水されています。

 

この広大な見沼を干拓し、農業用水を利根川から引くという計画があがったのが江戸時代の1725年(享保10年)ということにまた驚かされます。

 

三百年以上も前から関東平野の河川を改修し、水と闘いと水を利用することで今の生活と風景があるのですね。

 

訪ねてみてよかった。

沼の端だったと思われる方へと緩やかな上り坂を歩いて、次の目的地に向かいました。

 

 

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