水のあれこれ 319 荒川の「川幅日本一」の地域

滝馬室の氷川神社から県道27号線を渡り、さらに荒川左岸沿いを北へと歩きました。

右手は少し高台になって住宅や畑が点在し、左手は堤防の近くに公園がありましたがそれ以外は原っぱという風景です。

 

その原っぱの一角に大きな写真の案内板がありました。

ここが川幅日本一 荒川 海まで62km

川幅日本一 2,537m

 

裏へ回ると説明が書かれています。

川幅日本一 荒川のすがた

 

荒川は、埼玉県、山梨県、長野県に跨る甲武信ケ岳を水源とし、秩父市熊谷市鴻巣市さいたま市などを経て、東京湾にそそぐ延長173kmの一級河川です。

鴻巣市を含む中流域では武蔵野台地や大宮台地に挟まれた低地を緩やかに蛇行しながら流れています。

しかし、ひとたび大雨になると、ふだんは公園やグラウンド、農地として利用される河川敷いっぱいに水が流れ、この広い河川敷は荒川の氾濫を防ぎ、都市を守るための働きをしています。

 

ああ、ここだったのかと初めてその場所がつながりました。

どおりで河川敷のすぐそばに建つ氷川神社の境内から水面が全く見えなかったのですね。

 

 

案内図では、県道27号線の御成橋のかかる鴻巣市から対岸の吉見町のたもとまでが2,537mとなっていました。

 

地図を見ると荒川の両岸は水田地帯で、さらに荒川の右岸には旧河道のように蛇行した場所があり、そのさらに西側には蓮名新田、高尾新田、久保田新田、須野子新田があって対岸の武蔵野台地の縁になるようです。

 

川幅いっぱいに水が溢れるのは「空地」ではなく「新田」と名がついた地域であり、氾濫から遊水へのこの地域の歴史はどんな感じだったのでしょう。

 

ここからこのあともう一つ訪ねる予定の糠田地区の氷川神社まで、荒川左岸の大宮台地は削られたかのように弧を描いています。

そしてその先に武蔵水路の合流部があります。

 

川幅が最も広いこの遊水池的な場所に向けて、武蔵水路が合流するように掘られたのだとつながりました。

 

「この河川敷は荒川の氾濫を防ぎ、都市を守る働きをしています」

沿岸地域を守ることはもちろんのこと、数十キロ下流の大都市を守るためでもある。

江戸時代の中条堤のような働きですね。

 

武蔵水路は水田に水を運ぶだけでなく、ここから40kmほど下流では東京と埼玉の取水施設があり、利根川からの水を運ぶ武蔵水路によって首都圏の上水道が維持されているようです。

そして「周辺地域の洪水や出水を取り込む役割(内水排除機能)」もあるようです。

「治水と利水は一体であるべき」という考え方になるまで、どんな歴史があったのでしょう。

 

 

 

 

*「荒川」の歴史*

 

ところで、ここから10kmほど上流の熊谷駅の南東で、元荒川から荒川が分かれています。

昨年熊谷を歩きました。

利根川と荒川に挟まれた場所でありながら、その流れを隔てるような小高い場所もない熊谷の地形に、何度も荒川の歴史を読み直すのですがこのあたりの地域の川の歴史に頭が混乱してしまいます。

 

荒川は古くから利根川の支流で、関東平野に出た後、扇状地を作り、扇端の東縁(現在の埼玉県熊谷市行田市)で利根川と合流していた。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃まではb現在の荒川の流路を通り東京湾へ注いだが、3000年前頃からは、現在の埼玉県加須市方向へ向かった後、中川低地へ入り、南流して東京湾江戸湾)へ注ぐようになった。利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れていた。

 

荒川本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した。江戸時代初期頃は荒川は現在の元荒川の川筋を通り、現在の埼玉県越谷市吉川市付近で利根川と合流した。

 

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なった。なお現在、元の河道は、締め切られた熊谷市久下で地下水湧水(現在は人工揚水)を源流とし、吉川市で中川と合流する元荒川となっている。

 

わずか10行ほどですが、この歴史を理解するまでにまだまだ時間がかかりそうです。

 

 

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