散歩をする   97 <東西用水酒津樋門>

倉敷滞在2日目の計画は当初、郷土資料館を訪ねて、その後伯備線高梁川沿いを歩こうと思っていました。


地図で高梁川沿いを眺めていたら、ため池のような水色の部分があります。
そこから何本かの用水路が海側の干拓地へと伸びています。その一本をたどっていくと、祖父の田んぼのあった地域にも水を運んでいたようです。
さらに指で拡大して行くと、ため池のような部分から5本の水路が水色の線で描かれていて、そばに「高梁川東西用水組合」という施設名が書かれていました。
きっと、見沼代用水と武蔵水路のような用水路だろうと思いました。


今まで、祖父の地域の溜池や用水路に少しずつ関心があったのですが、肝心の「その水はどこから来るのか」までは突き詰めて考えたことがなかったのでした。
きっと、この東西用水路から水が来たに違いありません。
この目でその場所を見てみよう。
直前になって、大きく予定を変更したのでした。


倉敷駅から北西にあるその場所までは、循環バスが近くまで走っていることがわかりました。
2本の用水路が並行して流れている場所で下車し、用水路に沿って歩きました。
利根川から取水している見沼代用水や武蔵水路よりは規模が小さく、底部の水草まではっきりと見えるのでそれほど深くはなさそうですが、水の流れはけっこう速いように見えました。
どこにでもあるコンクリートの三面張りの用水路ですが、樋門が見えてくると風景は一変しました。
YouTube「高梁川東西用水取配水施設が国の重要文化財に指定」という動画がありました。
疎水100選にも選ばれているそうです。


ちょうど紅葉の季節で周辺の山や用水路沿いの幻想的な風景の中、しばらく水路に沿って散策をしました。


<東西用水路についての資料より>


一般社団法人セメント協会の「自然と共存し、生活を守る  河川・港湾管理、砂防」の記事の一つに「東西用水酒津樋門(岡山県倉敷市)という記事が公開されています。

 倉敷の発展史を語る時、欠くことのできない高梁川が運ぶ大量の土砂との戦い。江戸時代には天領として栄えたこの地も、その陰では干拓による生活基盤確保と洪水に備えた築堤造りの苦闘が繰り返された。ようやく近代土木技術による抜本的対策の手が付けられたのは明治後期に入ってからのこと。1911年に内務省直轄で始動した高梁川改修事業は、フランスで近代土木建築学を学び、後に港湾治水の祖と謳われた沖野忠雄技監が陣頭を指揮した。工事では全長24kmの堤防構築とともに干ばつ時に頻発した農業用水争いを鎮めるため川の両岸にあった11カ所の取水樋門を統合、用水を経済的かつ公平に分配する新たな樋門をRC構造で建設した(1924年)。樋門は取水樋門、北・南の配水樋門からなり、表面に花崗岩をあしらった風格ある造りで、農業用としては国内最大級を誇る。取水樋門をくぐった水流は約3.1haの配水地に導かれた後、21の配水樋門から6つの用水路に分配される。供給後90年以上を経て人の営みと自然、そしてコンクリートの役割を巧みに調和させて、今もここに集う豊穣な農地づくりのための力水の脈動を支え続けている。


配水池から南側へは5本の用水路が出ていることが地図上でもわかったのですが、北側の水色の線はてっきりこの配水池へと流れ込んでいるのだと思っていました。
高梁川の流れに対して下流から上流へと向かうような形で、もう一本、用水路が出ているようです。


このあと伯備線に乗った時に、車窓からその北側の一本が見えました。
あの玉川上水を蔵野台地へとのせたように、高低差のある場所に用水路を引いたように見えたので実際に歩いて見たいと思いましたが、今回は時間がありませんでした。


1924年大正13年)。
曽祖父から祖父へと田んぼが引き継がれた頃ではないかと思うのですが、当時、祖父はどんな思いでこの東西用水路を見ていたでしょうか。
当時は、どんな風にこの地の水田の風景が変化していったのでしょうか。
何気なく見つけた地図の小さな青い部分から、祖父の用水路の歴史が少しわかりました。


子どもの頃から高梁川という名前をよく耳にしていたのですが、その小さな青い部分からさらに深い歴史を知ることになりました。
ということで、続きます。



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