水のあれこれ 178 昭和用水と残堀川

郷地町の崖線側の水路から多摩川へと近づくと、幅3mほどでしょうか、昭和用水の水路がありました。

近づくと、ここにも大きな鯉がいたのですが、流れが早いのか時々押し戻されています。

反対側は、水田だったのだろうと思われる一段低い空き地があったり、小さな水門も残っていました。いつ頃まで、この辺りには水田が広がっていたのでしょう。

もしかしたら「昭島の水は美味しい」と耳にした1990年代なら、まだまだ田畑が残っていたのかもしれません。

 

しばらく歩くと、水路は一旦、住宅の間へと消えました。迂回して再び水路沿いに歩けるようになったのは、新奥多摩街道沿いに富士見町団地が始まる辺りからでした。

水路の両脇には木が植えられていて、まるで玉川上水のような趣です。

車道からは水路の気配がわからなくて、団地との境に並木があるようにしか見えないかもしれません。

水路は団地の中を突っ切って、途中、公園になり、また住宅街の間へと消えていきました。

富士見町団地は1968年(昭和43年)にできたようですから、当時はこの辺りは多摩川沿いの水田地帯で、この団地もまたコンクリートの防水堤のような雰囲気だったのでしょうか。

 

立川市立第八中学校沿いに水路が続き、最後は残堀川へと合流していました。

あの瀬切れを起こして水無川の部分もある残堀川とは思えないほど、水量が多く、周囲は木が鬱蒼として遊歩道も整備されていました。

対岸は立川崖線で小高く、昭和用水との合流部のすぐ上流側で屈曲した場所に貯水地が造られているようです。

このあたりが、Wikipediaの残堀川の歴史に書かれている「富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川(立川市)に注いでいた」とある箇所のようです。

以前は、立川市は平地のイメージでしたが、立川崖線を知らなかったからでした。

 

 

*昭和用水の歴史*

 

「昭和」用水というくらいなので、昭和に造られたものかと思ったら、もっと歴史は古いようです。

「知っていますか 東京の農業用水」(東京都産業労働局農林水産部)に詳しく説明があります。

昭和用水の概要 

 多摩川にある昭和用水堰を取水口とする昭和用水は、かつては九ヶ村(現在の昭島市立川市となっている拝島、田中、お拝み、宮沢、中神、築地、福島、郷地、柴崎)をかんがいしていたことから九ヶ村用水(立川堀)と呼ばれていました。

 九ヶ村用水の成立は比較的古く、室町時代に用水路の原形が作られ、延宝元年〜8年(1673〜80年)頃の江戸時代には完成したと言われています。

 用水の延長は約8kmで、熊川村(現在の福生市)で取水された多摩川の水は拝島村の圦樋(いりひ)から引き入れられ、九ヶ村の田畑をかんがいし、柴崎村(現在の立川市)で多摩川に戻っていました。

 

用水が流れる地域の概要 

 本地域は多摩川中流域に位置し、武蔵野台地の境目である立川崖線と多摩川に挟まれた、東西方向に細長く近郊農家の水田や畑作地が広がる地域です。

 また、昭和用水堰付近は川の水もきれいで、河川敷には草木が生い茂り野鳥や昆虫も多く生息しており、釣りやバードウォッチングを楽しむ人の憩いの場にもなっています。

 

昭和用水の歴史 

  昭和初期に多摩川の水量が減って、九ヶ村用水の取水口では十分に取水できなくなったことから、昭和8年(1933年)に現在の位置に木製の昭和用水堰が設置され、昭和30年(1956年)にはコンクリート堰として改築されました。

 この取水地点は多摩川と秋川の合流点にあり、両方の河川から水を取り入れており、この水は用水として現在でも地域の田畑を潤しています。

 また、平成12年(2000年)には、昭和用水堰に新しい魚道が完成しました。

 

現在の昭和用水 

  室町時代から農業用水として利用されてきた昭和用水も、宅地化などにより田畑が激減したため、本来のかんがい機能が薄れてきました。

 しかし、親水緑道が整備され、地域住民の憩いの場を提供しており、また市民団体である「ホタルの会」により、水路の保全活動も盛んに行われています。

 

訪ねた時には残念ながら、残っている水田もまだ田植えには早かったのですが、水の音を聞きながら歩くことができました。

室町時代からのこのあたりの風景の変化は、どんな感じだったのでしょうか。

 

 

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