水のあれこれ 151 牛ヶ首用水

高山線の指定席を進行方向に対して右側でと考えた理由は、川の流れがよく見えるようにという理由とともに、もうひとつありました。

 

富山県に入って神通川扇状地が広がり始める東八尾駅の少し手前で、地図では、神通川の左岸から細い水色の線が北北西に伸びているのに気づきました。

神通川へ注ぐ支流ではなく、神通川から引いている用水路かもしれないとぴんときました。

地図を拡大していくと「牛ヶ首用水」とあります。

ここの取水口を見るとしたら、「進行方向に対して右側の席」が良さそうです。

 

実際には、通過する時に右側の車窓の方を見てみましたが取水口らしき場所はほとんど見えず、むしろ左側の座席だったおかげで、その用水路が始まる手前から崖のような小高い場所が左岸側にあり、取水口の場所としてこの地が選ばれた理由がわかるような地形でした。

座席の取り間違いもあながち「痛恨のミス」ではなかったようです。

 

 

*牛ヶ首用水の歴史*

 

富山平野の地図を見ると、用水路を訪ね歩いている私にとっては、数日かけてもすべてを回ってみたいと思うほど、水色の線があちこちにあります。

大きな山並みから富山湾へ注ぐ豊かな水があるので、こんなにも豊かな水田地帯があるのだと思っていました。

きっとずっと昔から。

 

ところが、水土里ネットの「牛ヶ首用水の歴史」を読むと、まったく違うことが書かれていました。

用水を願いに立ち上がった人々 

 

昔、婦負郡北部(現富山市)や射水郡の一帯は、神通川の氾濫で出来た沼地や荒地でした。農民たちは、近くの川の水を利用し、わずかな畑を耕していましたが、水不足で干ばつの被害に遭うことが多く、収穫はほとんど見込めませんでした。

水不足に苦しむ農民たちにとって、神通川の支流、井田川山田川の水を引き、水田を開くことは、先祖代々の願いでした。そこで近隣のむらが協力し、その頃一帯を納めていた加賀藩に、用水路の開削を願い出たのです。このとき人々の先頭に立ったのが、八町村善左衛門、下村長左衛門、小竹久右衛門でした。3人は藩に農民たちの、苦しみと、用水の必要性を訴えました。

 

今まで訪ねた二ヶ領用水とか品川用水とか、用水の歴史には必ず「農民たちの苦しみ」がありました。

空腹を感じることはあっても、少なくとも栄養失調や飢餓を経験することもなく生きてきた私には、まだまだ本当にその苦しみを理解できるとは言えない歴史です。

 

加賀藩が築いた牛ヶ首用水の基礎 

 

加賀藩により用水路の工事が始まったのは、1624年(寛永元年)のことでした。その計画は、山田川から水を取り入れ、駒見用水にいたるというもので、加賀藩の藩主、前田利常公はこの工事に並々ならぬ力を入れました。

また、利常公は用水路ができることで新しく水田が開かれ、水を使う量が増えることを見越して、計画に変更を加えました。これにより、山田川だけでなく井田川からも水を取り入れ、用水の川幅も予定の2倍に広げることになりました。

こうして加賀藩の絶大なる支援のもと、牛ヶ首用水は1633年(寛永10年)に概ねの完成を見ることができました。

 

四万石の水田を築いた「古江(こうえ)」と「新江(しんえ)」 

 

1638年(寛永16年)、加賀藩から富山藩が分家し、牛ヶ首用水は両藩の共同で管理されるようになりました。また、婦負郡と新川郡の一部を領地とした富山藩には、新しく出来た村から牛ヶ首用水の水を取り入れたいという願いが相つぎましたが、水が足りなくなることを心配する加賀藩の村からは強い反発がありました。そこで両藩で協議し、水がより貴重な神通川の本流に牛ヶ首用水の水源地をもとめ、そこから井田川までの用水路を新しく作ることになりました。

1654年(承応3年)、完成した用水路は「新江」以前からの用水路は「古江」と名付けられ、この後、牛ヶ首用水の水を引いて、新しい水田が次々と開かれました。やがてその石高(収穫量)が四万石にも達したことから、牛ヶ首用水は別名「四万石用水」とも呼ばれるようになりました。

 

牛ヶ首用水の中でも、八ケ山は最も難所でした。工事は進まず、人夫たちは途方に暮れていました。そんなある夜、加賀藩から工事の責任者を任じられた八町村善左衛門の枕元に神様が立ち、「寝牛の首を取り、難所に埋めよ」と告げられ、夢から覚めた善左衛門はすぐにこれを実行しました。そして翌朝、人夫たちが難所で牛の首を見つけると、善左衛門はこの時とばかり「これは神様の助けだ!」と言ったのです。これで人夫たちも元気百倍。八ケ山の難所を無事切り抜けたのでした。その後完成した用水路は「牛ヶ首」と名づけられました。また、「牛首天王」の言い伝えもあります。

「牛ヶ首用水土地改良区」

 

高山本線はこのあと、千里駅と速里駅の間で、牛ヶ首用水が一旦、井田川に合流して流れている上を通過し、そして婦中鵜坂駅と西富山駅の間で、もう一度牛ケ首用水として流れている箇所を通過して富山駅に到着します。

出発する直前に偶然見つけた牛ヶ首用水を見逃さないように、ずっと車窓をみていました。

 

昨年見ていた豊かな水田地帯の富山平野と同じ風景なのに、一本の用水路の歴史を知っただけで違った風景になりました。

 

 

 

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