水のあれこれ 209 巴川と麻機遊水池

あさはた緑地のサイトの説明には、こんなことが書かれています。

あさはた緑地は「自然とふれあう体験型の都市緑地」をテーマに、麻機遊水池第一工区に整備された緑地公園です。普段は市民の憩いの場として、大雨等の災害時は人命と財産を守る遊水池としての役割を果たします。

※麻機遊水池は1974年(昭和49年)の七夕豪雨を契機に巴川の増水時に水位を下げるために造られた河川施設です。

 

「七夕豪雨」、私が中学生の頃のようですが記憶にありません。

Wikipedia概要を読むと、相当の被害があった水害でした。

1974年7月7日午前9時から8日午前9時までの静岡市の24時間連続雨量は508mmを記録し、これは静岡地方気象台観測史上最高記録となった。

この雨により特に被害が大きかったのが静岡市内を流れる安倍川流域と、下流域が当時の清水市である巴川流域で、各所で決壊・氾濫が発生するとともに崖崩れ・土砂崩れが発生し、死者27名、全壊・流出家屋数32戸、床上浸水11,981戸、床下浸水14,143戸もの被害が発生した。それ以外の市町村では浜松市で死者8名、沼津市で死者5名、森町と富士市三島市でそれぞれ死者1名の被害も発生した。

 

あさはた緑地を訪ねた後はどこに行くか地図を眺めていた時に、海岸のそばに「治水交流館」を見つけました。

それがちょうど、「放水路だろう」と思った水色の線のそばだったので確信したのですが、これもまたこの七夕豪雨によるものだったようです。

巴川においては流路勾配が1/750~1/50,000のため浸水被害を起こす要因になった。この災害をきっかけに巴川の氾濫防止のため大谷川放水路(1999年(平成11年)5月完成)の建設が促進された。

 

地図でなんとなく気になった場所が、つながりました。

 

 

*巴川の歴史*

 

あさはた緑地を訪ねる前はバスが山沿いに高い場所へと登るイメージでしたが、実際にあさはた緑地に立ってみると、静岡市内のビル群がほとんど変わらない高さに見えるような場所でした。

 

Wikipedia巴川の沿革を読むと、その感覚もあながち間違いではなかったようです。

・有史以前ー巴川流域は深い入り江だった(古麻機湾)。

・近世以前ー天然の良港だった清水港と巴川河口部は江尻湊と呼ばれ、駿府城のある静岡平野までの水運として活用されていた。

 

バスで賎機(しずはた)山沿いを走っているときに、右手側が浅い窪地のように感じたのですが、そうそう、浅瀬の海底のような感じでした。

あのあたりまでかつては海だったのですね。

 

Wikipediaの説明では「1611年(慶長16年)ー初めて橋が架けられる」の次が1971年の「二級河川に指定」なのですが、その間、徳川家康による安倍川の流路変更が行われ、そして「明治39年1906年)から大正3年(1914年)にかけ、巴川水害予防組合・土地改良区によって巴川改修工事が行われ」という歴史をもう少し知りたくなりました。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら