大谷川(おおやがわ)放水路の石碑のそばに、「大谷川放水路の概要」の説明板がありました。
まさにこれから訪ねようと思っていた地図でなんとなく見つけた川が複雑に合流する場所の説明が書かれていました。
放水路の概要
放水路は巴川の古庄地区に分流施設をもうけ、洪水の一部を駿河湾に流します。後久川を拡げJR東海道線の南側から新たに2650m に水路を掘って、もともとあった大谷川につなげました。
放水路の規模
放水路の総延長は6300m、勾配は1/2500、川幅は35mから25mです。護岸は両岸の地形に合わせて逆T式護岸工、地中梁式護岸工などの工法で行い、流れには駿河湾をよごさないようにゴミを取る網や水質をよくする施設、河口には地震や台風に備えた水門をつくりました。
放水路の役割
①巴川の洪水を分流し、浸水被害をへらします。
②大谷川放水路の周辺も洪水から守ります。
わかりやすい言葉で書かれていますが、その行間の専門的知識や経験を考えると、重みに圧倒されます。
大きな災害があると、一人の生命も犠牲にしないという社会からの究極の目的を課され、複雑な問題解決のための方法が当然のように求められ、想定外の災害が起こると責任を問われる。
私自身の仕事の超緊急にも完全を求められ、快適で満足することも求められた時代を思い出しながら歩き始めると、歩道の隙間に季節はずれのスミレが咲いていました。
足取りが重くなっていたのが嘘のように、最後の目的地へと向かいました。
*静岡清水線で古庄へ*
自然堤防で少し高台になっている住宅街から、静岡駅行きのバスに乗りました。昔からの住宅地を過ぎ、平地に広がる新しく開発されたような地域に入ると「津波浸水想定地域」という表示が見えました。
静岡駅から10分ほど離れた新静岡駅から清水行きの電車に乗りました。
住宅地の中を走る一駅間も近い小さな路線で、一度乗ってみたいと思っていた路線です。沿線にコスモスが美しく咲き、家々がぐっと迫る感じに大満足。終点まで乗ってみたかったのですが、分流施設に近い古庄駅で下車しました。
12時半に到着。駅前におにぎり屋さんがありました。美味しそうです。
今日も早朝に朝ごはんを食べたきりで空腹ですが、今回の散歩は時間に余裕があるのでどこかお店に入ろうと決めていましたから、ぐっとこらえて目的地に向かいました。
住宅街を歩き、少し下り坂の先に公園がありました。
そばを流れるのが、先ほど海岸沿いでみた大谷川放水路です。
その向こうに、巴川ともう一本の川が合流しています。iPhoneのマップでも川の名前が載っていないのですが、静岡清水線の車窓の左手に見えた山の端から流れているようです。
巴川にかかる巴大橋から、二つの川が合流しそして大谷川放水路が分かれていく場所を眺めました。
色あせたコンクリート製の護岸で、以前の私だったらなんと無粋なと批判的にみていたことでしょう。
半世紀もこの地域を守ってきた施設を、1970年代に建設したこと自体すごいことですね。
巴川の上流を歩き大谷川放水路の水門をみて、その治水の歴史を知ると、風景が全く違って見えてきました。
*1970年代ごろのこの辺りはどんな感じだったのだろう*
それまでは降ったりやんだりの天気でしたが、次第に本降りになってきました。
ここから大谷川放水路に沿って歩き、東静岡駅まで行く予定です。
分水施設から700~800mぐらい南側に、東海道新幹線と東海道本線が通っています。
大谷川放水路沿いに新幹線の線路の下をくぐって南側に出るつもりでしたが、実際に歩いてみると新幹線は他の在来線と同じ地面の高さを走っている場所で、反対側には行けないようでした。
こんなに低い場所を走っていたのですね。
たしかこの先から新幹線がぐっと高架橋で高くなり、その下を東海道本線がくぐって静岡駅に入るのは車窓からみていたのですが。
大谷川放水路は1974年に着工して1999年に完成したようですが、1959年に建設が始まり1964年に開業した東海道新幹線は、なぜ浸水のリスクがありそうなこの場所で高架化しなかったのだろう、この辺りはどんな場所だったのだろうと不思議ですね。
静岡鉄道静岡清水線の歴史に、こんな箇所がありました。
戦時中に鷹匠町車庫が手狭になり、湿地帯で稲作にむかず蓮田となっていた静岡市東部の長沼地区を苦労しながら埋め立てて車両基地を建設した。
古庄駅の一つ手前が長沼駅で、そのあたりまで湿地だったようです。
そのそばを今、安全に新幹線が走行しているのですが、どうやってその地形を見極めて行ったのでしょう。
気になることがまたまた増えてしまいました。
本降りの中、東静岡駅に到着。
コンコースから雨にけむりながら走行する新幹線を何本か眺めて、満足して駿河国の散歩が終わりました。
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