あさはた緑地を歩くときにはまだ薄日もさしていましたが、バスで静岡駅に戻った頃からポツポツと降り始めました。西には黒い雨雲が迫っています。
これから放水路を見に行くのに本降りになりそうですが、むしろこういう施設の必要性がわかる天候だと気を取り直しました。
今度は海岸へと向かう路線に乗りました。
下田街道をまっすぐ、少し前までは水田だったのだろうなと思うような平地を走ると、登呂遺跡入り口というアナウンスがありました。
たしか小学生の頃に訪ねたことがあります。こんな平坦な場所だったのかと、ちょっと記憶の曖昧さに驚きましたが、「安倍川の付け替え」から考えると、この辺りは旧河道沿いの高台だったのかもしれません。
海岸に近づくにつれて住宅や畑が増え、自然堤防と思われる高低差があちこちにありました。住宅街の蛇行した道をバスが走り、一旦大谷川(おおやがわ)放水路を越えて大谷バス停で下車しました。
住宅と畑の間を海岸に向かって歩くと、海岸沿いに治水交流館があります。残念ながらこの日は休館日なのは事前に知っていたので、そのまま放水路へ向かいました。
すぐそばに駿河湾が広がる場所ですが、その間を交通量の多い国道150号が通っています。誰も歩いていません。ひっきりなしに車がそばを通る道をやれやれと、とぼとぼと歩き始めた歩道の横にさらに遊歩道があることに気づきました。「潮風の散歩みち」で、海は見えなくなりますが樹木に囲まれた歩道が整備されています。木があるだけで、少し静かな道になりました。
国道150号を読むと、海岸線ギリギリに通る幹線道路もまた「道に歴史あり」ですね。
*大谷川放水路*
大きな水門が近づいてきました。大谷川水門です。
遊歩道の終わりに近づいたあたりに、石碑がありました。
大谷川放水路完成記念碑
大谷川と周辺の変遷
大谷川は古代において静岡平野を乱流していた安倍川の一支流とされ、蛇行しつつ南下し、海岸部で東に大きく曲がり西平松地先で駿河湾に注いでいた。大谷川放水路建設に際して発掘された神明原・元宮川遺跡からは、流域の低湿地で早くから農耕が営まれていた跡が発見されている。
だが江戸時代には流域の水田は水不足に悩み、駿府城外堀の湧水を大谷川に導いて利用するなど用水確保の苦労は近年まで続いた。昭和18年(1943)登呂・小鹿地区での軍需工場建設に際し、大谷川河口部は付け替えられ、駿河湾に直接面するようになった。同30年代以降の急激な市街地化をうけて静岡市は東部開発計画を作成、大谷地区においても農業構造は変化し始めた。おりから東名高速道路建設や静岡大学移転などの大プロジェクトが動き始め、国をあげての高度経済成長期のまっただ中で地域は大きな変貌を迫られていた。
大谷川放水路建設の経緯
大谷川放水路構想は昭和28年(1953)麻機沼干拓もめざして策定した静岡県第四次総合開発計画に初めて登場し、同33年(1958)長尾川の決壊による流域の災害を契機に具体化が始まった。同39年(1964)県の第6次総合開発計画を受けた静岡市長期開発計画は、放水路建設・東名高速道路・静岡大学移転等をその柱としたが、放水路建設は停滞を余儀なくされていた。同49年(1974)の七夕豪雨による大災害の後、地元住民によって構成されていた大谷川対策委員会の懸命な努力が、放水路建設が大谷地区および巴川流域全体の発展につながるという共通認識を形成、その結果地権者を始め多くの関係者の深いご理解とご賛同を頂き、静岡・清水両市民の永年にわたる悲願が達成された。
ここに尽力頂いた関係各位の功績を刻み末永く顕彰する。
平成11年5月吉日 巴川より大谷川放水路へ通水
北からまっすぐに駿河湾に向かって流れる放水路の上に立ち、そして水門をもう一度眺めてからバス停に戻りました。
午後はその「巴川より大谷川放水路へ通水」した場所を目指します。
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