医療介入とは 68 <再び分娩台について>

なぜ分娩台というものが必要なのか考えているうちに2ヶ月近くが過ぎてしまいました。
このシリーズは「医療介入とは 33 <産婦さんにとって快適な姿勢>から始まっています。


最近の出産は「女性には産む力がある」「赤ちゃんには生まれる力がある」といったメッセージとともに「畳の上」で「フリースタイル分娩」が流行りなのでしょうか。


そういう施設のHPをいろいろみていくうちに、これは分娩台とかわらないではないかと思った写真がいくつかありました。


それは「畳の上でのお産」を売りにしている施設で、ただの和室ではなく畳の部分だけを高くしているところがけっこうあることでした。
写真なので正確な高さはわかりませんが、30〜40cmぐらいの高低差があるように見えます。


なぜあえて高低差をつける必要があるのか。
ひとつは産婦さんが腰かけやすいという点があることでしょう。
お腹の大きい産婦さんにとっては和室の布団に寝起きする動作はつらいだろうと思います。


もうひとつは助産師にとっても床や畳の上で産婦さんと同じ高さよりも、高低差があったほうがケアをしやすいことと思います。


だから陣痛室ではベッドの方が座ったり横になったり動きやすいのではないでしょうか?


さらに、その畳のある高い部分の縁に、産婦さんがパートナーの男性に背中を支えてもらった半座位の姿勢で出産している写真がありました。
介助する助産師は、その高低差を利用して児を受け止めているようです。
助産師の背後には、手元を照らす照明もありました。そう、無影灯と同じように。


なんだ、分娩台と同じことではないか。


この姿勢なら分娩台の方がよっぽど産婦さんの良いように背の角度などを調節できるし、いきむ時に握ってひっぱれるバーもついているのに、畳や布団の上では握るものもなくて大変そうです。


もし分娩台が医療者の都合が優先されている部分が多いのであれば、産婦さんの要望をメーカーに伝えて改善していけばよいだけの話ではないでしょうか。


<「助産婦の創意工夫ー観察から正面介助を開発ー」>


「お産ー女と男とー 羞恥心の視点から」(大林道子氏、勁草書房、1994年)の中に、現在の分娩台の原型を考えた助産婦の話があります。


この本が出された当時、すでにアクティブ・バースの影響は広がっていました。
それでも「自然なお産」や「自然なお産を大事にする助産婦」を支持するこうした研究者たちも全員が分娩台批判をしていたわけではなく、大林氏は「医療介入とは 66 <仰向けのお産と「いいお産」、1990年代初頭>で紹介したように、分娩台でバルサルバ法でいきみを誘導していたお産も「いいお産」だったと述べています。


さて、現在使われている分娩台というのは、電動で臀部よりも脚側の部分の台を15cmほど下げ、そのまま本体の下に収納できるようになっています。
そして児を受けるために30〜40cmほど、本体から高低差をつけた部分を残せるようになっています。


そうして児娩出時に産婦さんの真正面から介助できるようになっているわけですが、これを正面介助といいます。
(さらに細いことをいえば、この方向からの介助でも「側面介助」と「正面介助」に分けることもあるのですが、今回このふたつを含めて正面介助と考えて読んでください)


このように工夫された分娩台がない時代は、ただのベッドでした。
ですから助産婦はベッドの横にたって分娩介助をしていました。これが側面介助です。


私も1980年代半ばにインドシナ難民キャンプで働いていた時に、カナダ人の助産婦がこの方法で介助をしているのを見ました。
キャンプでは助産婦が縫合までするのですが、産婦さんの真正面からではなくベッドの横から身を乗り出すようにして縫合していたのもやりにくそうでした。


近代産婆から戦後の助産婦まで家庭で分娩介助をする際には当然分娩台はなく、布団の上で正面から介助できたとしても臀部の下の高低差がないと会陰保護はやりずらかったことでしょう。
その後、有床の助産所ができて分娩台を取り入れるようになっても、まだただのベッドをいれるしかなく側面介助になっていたのではないかと推測します。


この正面介助を開発した助産婦について、以下のように書かれています。

 
 今日、一般に、日赤式とか東大式とかいわれる会陰保護を含む分娩介助法も、多くの助産婦が、母児に良いと思われる方法をあみだし、工夫を重ねてきたものである。
 正面介助を特色とする慶応式を開発したのは田中美代子さん。(中略)
田中さんは、昭和11(1936)年、慶応大学医学部付属産婆養成所を卒業した。

田中さんは、卒業後、東京市下谷産院をふりだしに、次いで新設された中野産院の婦長として、1945年敗戦直前に産院が空襲で焼失し、母児を中野区にただひとつだけ焼け残った病院に避難させ、残務を終えるまで勤めた。戦後すぐに、母校慶応の産婦人科婦長として1971年まで、延べ36年間助産婦としてお産を見てきた。

この経歴をみると、病院という施設分娩の中だからこそ分娩台を改良することができたのではないかと思います。

 分娩経過観察による諸々の事実を前提に、それまで主流だった側面介助から、出てくる胎児と真正面に向き合う正面介助に切りかえ、分娩台も設計した。この方法は観察が容易というだけでなく、胎児の後頭部の呼吸中枢を固い掌部分で押さえつけるのでなく、胎児が出てくる方向を邪魔しないよう、柔らかく適応できる手指部を児頭の動きにあわせて開いていく介助方法に好都合であった。

「胎児の後頭部の呼吸中枢を・・・」の部分に関しては私の学生時代の教科書には注意点として書かれていないので、田中氏の仮説で終わったのではないかと思います。


それでも分娩台の改良には、助産婦の「観察のしやすさだけでなく児のため」という視点があったことは大事なことでしょう。


近代産婆から助産婦への時代の分娩台の歴史を私たち助産師はまだまだ知らないことばかりでないかと思います。
「分娩台は医療者の都合」という言葉をそのまま受け入れるのではなく、まずは助産師の目でみた分娩台の歴史を自ら語れるようになる必要があるのではないかと思います。