医療介入とは 66 <仰向けのお産と「いいお産」、1990年代初頭>

前回の記事の中で、開業助産婦水落ユキ氏がご自身の助産所でアクティブ・バースを取り入れた体験談を紹介しました。


その部分を再掲します。

その講習会の後、私も実践で取り入れることにしました。うちの助産所でお産をする人は、母親学級に1回参加してもらいますが、そこでしゃがみ産やよつん這いの姿勢のことを話します。すると中には、その方が楽そうだという人がいて、今まで20例ぐらい取り上げました。みんないいお産でした。
「アクティブ・バース」(ジャネット・バラスカス氏、現代書館、1988) p.225


少し横道にそれますが、この「いいお産」という表現自体に私は「完全母乳」とともにとても違和感を感じています。


いいお産というものがあるのなら悪いお産があり、完全母乳があるのなら不完全母乳もあるということを暗に込めた評価の表現を出産や育児の中で使うことに、なんというか心が痛むのです。


以前、どこでコメントとして書いたのか忘れてしまったのですが、もし時代をやりなおせるのであればこの「いいお産」と「完全母乳」という表現を消してしまいたいと思っています。


さて、水落ユキ氏がしゃがんだりよつん這いのお産を取り入れ始めて「いいお産だった」と感じた当時、助産婦を外側から見つめている研究者はまた違った感想を持っていました。


「お産ー女と男と  羞恥心の視点から」(大林道子著、勁草書房、1994年)の中に、偶然ですがこの著者が水落ユキ氏の助産所を見学して、その出産介助に感動した様子が書かれています。


大林道子氏は「助産婦の戦後」(勁草書房、1989)をはじめ、助産婦や出産に焦点をあてた研究をされてきた方です。


<「お産ー女と男と」に描かれている助産所の出産風景>


水落氏が「いいお産でした」と語ったのは1980年代半ばと推測されるのに対して、大林道子氏が水落助産院を見学したのは「開業42年のベテラン」と紹介しているので1989年から90年ごろのようです。


水落助産院の様子が以下のように描かれています。

 八畳ほどの分娩室は、普通の民家と変らない質素なつくりだった。新式の機材と言えば、足ふみペダルで自由自在に動く分娩台だけ。そのかたわらには、使い古した分娩監視装置、救急備品一式の入った棚、七つ道具・薬品・ガーゼ類を入れた白いガラス戸棚、そして流しとその台の上に銀色に光る消毒用のシンメルブッシュ(煮沸消毒器)、目盛りのついた竿の上を分銅を右に動かして量る体重計、といった必要最小限のものが並ぶ。(p.2)

電動式の分娩台があったようです。


また「使い古し」といっても当時分娩監視装置を助産所でも置いていたことは、1987年(昭和62年)の診療所での分娩監視装置の普及率がまだ56.3%であったこと(*「医療介入とは30」)や、1947年(昭和22)から開業されて病院で分娩監視装置を使った経験がないこと(**「医療介入とは23」)を考えると、水落氏は分娩の安全性を考えて積極的に医療機器をとりいれていらっしゃったのではないかと思います。


「医療介入とは23 <CTGと助産婦、1970〜90年代の変遷>」
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121001
「医療介入とは30 <CTGの普及と助産婦の「自然なお産」の時間的なずれ>」
http://d.hatena.ne.jp/fish-b/20121010


「私たちは希少価値となってしまった開業助産婦の実態を知りたいと思い、彼女の話に耳を傾けていた。そこへお産の知らせが飛び込んできたのだった」と、大林氏は助産所での分娩を見学した様子を書いています。


「ちょうど午前一時、夫の車で入院してきた産婦は、すぐ分娩台へ」とあり、分娩の様子が以下のように書かれています。

 大柄で陽気な産婦が「痛いっ」「あ、痛」とニ、三度叫ぶ。水落さんは、しずかに、「もうすぐですよー、がんばってねー」「背中をつけて、肛門をあげて」「かたいお通じをするようにいきんでー」「そう、アゴを引いて、目をあけて」「さあ、深呼吸をして、息止めて」「いきんでいいわよー」と、絶えず指示や励ましの声をかける。と見る間に赤ん坊の黒い髪が見えかくれする排臨、そしてスルッスルッと頭、肩とでてきてしまった。
 傷ひとつない産婦、まるで沐浴をすませたように血の一滴もついていない、きれいな大きな赤ん坊がポコンとでてきた。(p.3)

そして、大林道子氏は感想を書いています。

水落助産院での、あまりにもあっけなく何でもないお産に、気負いこんでいた私は拍子抜けすると同時に、ああ、これがいいお産なんだと納得したのだった


また横道にそれますが、この本が出版された1994年当時は助産婦に男性の門戸が開かれる可能性があり、「分娩経過中も、産褥期にも女性の身体に直接触れる機会が多い助産婦の仕事に男性を入れてよいものか」という反対の声が高まっていた時期でした。


そうした背景で、この本が出版されました。
私も当時男性助産婦(士)の問題に関心を持っていて、集会に参加したことで大林道子氏の著書に出会ったのでした。


助産婦の戦後」とともに、当時は助産婦や出産の歴史に関する本がまだあまりない時代にこうした研究者の方々の本から刺激を受けたことで、自分の仕事を外から見る姿勢を与えられたと思っています。


この本を購入した当時は、この水落助産院での出産風景を読み飛ばしていたのか、ほとんど印象に残っていない部分でした。
あるいは当時の私にとっては開業助産婦さんというのは、会陰保護にしても何か神業のようなものをお持ちの大先輩だと思い込んでいたので、特に疑問にも思わなかったのだと思います。


今回読み直してみて、改めて大林道子さんはこの出産風景、それは病院でも普通に見られる光景になぜこんなに感激されたのだろうと、とても驚きました。


分娩室の風景も、シュンメルブッシュとか分銅の体重計といった古いものをのぞけば、当時私が働いていた総合病院の分娩室となんら変りない風景です。


見学したときに出産がちょうどあったようですが、来院されてすぐに分娩室に行き30分ぐらいで「スルスルッと頭、肩が出て」「傷一つない産婦、まるで沐浴をすませたかのように血の一滴もついていない」お産は、経産婦さんの出産では病院でも珍しいことでは決してないのです。


何が違うように大林道子氏の目には映り、「これがいいお産だと納得」したのでしょうか?
違いがあるとすれば普通の家屋の中であったことと、年季の入った助産婦であったことぐらいではないかと、今ではご本人にも異議申し立てできそうですが。


<「いいお産」と感じた分娩介助とは>


そして大林道子氏が「いいお産」だと納得された分娩介助は、水落ユキ氏も基本的には分娩台で仰向けで、バルサルバ法でいきみを誘導する方法であったことが、引用文の強調部分から読み取れます。


分娩台を使って仰向けでのお産だった様子も、当時の新卒の助産師も同じように声をかけ、同じように介助していました。


助産所のHPを見ても最近こそは「フリースタイル」という文字を目にしますが、古くから開業されている方々のところでは分娩台のある部屋の写真を載せているところがいくつもあります。


アクティブ・バースを先駆的に取り入れた水落氏さえも1980年代後半の時点では分娩台を使った「仰臥位分娩」、近代産婆の時代から始まった方法を行っていたことを考えると、助産所でもまた「昔から仰臥位分娩」を基本として行っていたのではないでしょうか。


そしてそれを「いいお産」だと、1990年代までは感動して受け止められていたわけです。


こうしていくつかの資料を読んでも、「昔の温かいお産」を介助していたというイメージの近代産婆から少なくとも1990年代初頭までの開業助産婦も皆、仰臥位でのお産をしていたと理解できます。


「いいお産」のイメージとしてよく使われる、「畳の上で」「家族に見守られながら」そして「自由に動きまわって産んだ」時代は本当にあったのでしょうか?