医療介入とは 69 <出産の医療化と分娩室>

しばらく分娩台と分娩時の姿勢、あるいは快適性とは何か考えてきました。


大事なことは、分娩台だけがあっても不十分で、分娩室の中にあってこそではないかと思います。


分娩室はたしかに出産の医療化とともに作られた場所だといえるでしょう。


しかし病院や診療所での出産だけが「出産の施設化」ではなく、家庭分娩がほとんどを占めていた時代から助産婦もまた出産のための施設を考えてきたのではないかと思います。


伊吹島の産屋に造られた分娩室、1956年>


「助産師だけでお産を扱うということ3 <産婆から助産婦へ、終戦後の離島での出産の医療化>」で紹介した伏見裕子氏の論文には、香川県伊吹島で1946年(昭和21)に赴任した助産婦Nさんが10年後にようやく産屋(うぶや)に分娩室を作ることができた話が書かれています。
「産屋と医療化ー香川県伊吹島における助産婦のライフヒストリーー」
(伏見裕子氏、女性学年報第31号、2010年)



伊吹島のデービヤと呼ばれる産屋はそこで出産して産後までを過ごす施設ではなく、「自宅で出産し、翌日歩いて産屋に移動し1ヶ月ほどを過ごす」というためのものであったそうです。


Nさんはできれば産屋で出産したほうがよいと考えつつ、その土地の風習をすぐに変えることはしなかったことが書かれています。

Nさんは、医学的見地から、出産直後に坂道を歩くのは良くないため、自宅で産んだらそのまま自宅にいたほうが良いと勧め、デービヤへ行きデービヤで産んでそのままいるように勧めて、風習との折り合いをつけようとした。(p.106)


それまで無資格のトリアゲババによる出産介助が行われていた伊吹島で、助産婦Nさんが徐々に信頼されていくようになります。

 Nさんによると、「デービヤで出産するように」との勧めにも、三人に一人ぐらいは応じてくれたそうである。そこでNさんとIさんは役場に出向き、「デービヤに分娩室を作ってほしい」と要求したそうである。こうして、1956年に分娩室が設けられたのである。

 Nさんの話では、分娩室に作りつけの木製ベッドだけは作ってくれたようであるが、特別な設備ができたわけではなかった。Nさんは、デービヤに分娩台や医療道具を置いて「病院みたいにしたい」と考えていたようであるが、それは叶わなかった。しかも、この当時は出生数が非常に多く、分娩室も他の部屋と同様に褥婦の生活の場として使われることがあったため、分娩室とは本当に名ばかりであったそうである。

Nさんが「分娩台や医療道具をおいて病院のようにしたい」というのは、先の記事に引用したNさんの言葉通り医師を呼んでも間に合わない場合などの医療処置に限られていたわけで、助産婦だけで分娩を完結させようという思いではなかったのでしょう。


そして木製ベッドでは分娩台代わりにならないことが、この一文からも読み取れるかと思います。


それは分娩時の異常時の処置に対応できるベッドにはなり得ないからといえるでしょう。



<異常時への設備、1990年代初頭の助産所の風景から>


「医療介入とは 66 <仰向けのお産と『いいお産』、1990年代初頭>」で紹介した水落助産院の分娩室の様子を再掲します。
「お産 −女と男と 羞恥心の視点から」(大林道子氏、勁草書房、1994年)

8畳ほどの分娩室は、普通の民家とかわらないつくりだった。新式の器材と言えば、足ふみペダルで自由自在に動く分娩台だけ。そのかたわらには、使い古した分娩監視装置、救急備品一式の入った棚、七つ道具・薬品・ガーゼ類を入れた白いガラス戸棚、そして流し台とその側の台の上に銀色に光る消毒用のシンメルブッシュ(煮沸消毒器)、目盛りのついた竿の上を左右に動かして量る体重計といった必要最小限のものが並ぶ。(p.2)

分娩監視装置は別として、この分娩台と「必要最小限のもの」こそが、Nさんが要望してもかなえられなかった物でした。
この本が書かれた時から約30年前の時代には。


そして大林道子氏が「普通の民家とかわらないつくり」と表現した分娩室の中にあった設備、それがNさんのいう「病院みたいにしたい」ための設備だったのです。


<家庭分娩から助産所へ>


家庭分娩と病院・診療所での分娩の割合が逆転したのが1960年代ですが、それにさきがけて1950年代に有床の助産所が「初めて」日本に誕生したことは何度か書いてきました。


つまり開業助産婦による出産も、家庭に赴いて分娩介助する形から入院施設を有した施設に産婦が来て出産する「出産の施設化」へと変化しようとしたことになります。


理由はなぜだったのでしょうか?


ひとつは、伊吹島のようにそれまでの無資格のトリアゲババによる介助を選択していた国民が、助産婦を選択するようになって分娩介助数が急増したと考えられます。
取扱い分娩数が増えれば何人も同時に分娩をみる必要性がでてくるので、自宅に赴く家庭分娩という形態は時間のロスになります。


当然、産婦さんを集めて分娩介助をする「出産の集約化」の必要性が出てくることでしょう。


1948年(昭和23)の医療法で助産婦に医療施設としての助産所開設が法的に認められたのも、そういう時代背景があったのではないでしょうか。


つまり、「正常分娩=助産婦=助産所」「異常分娩=医師=病院」の境界線としての助産所ではなく、トリアゲバアサンが担っていた分娩介助が一気に有資格者の分娩介助に移行してきた時代の経過処置としての助産所や母子健康センターだったといえるのではないでしょうか。


また助産婦だけでなく往診に呼ばれる医師も、往診の件数が増えれば対応しきれなくなります。
出産の集約化は、安全なお産のためには避けられないことであったわけです。


ふたつめは、分娩に必要な物品、特に救急時の医療物品をそのつど家庭分娩の場へ運ぶことは大変なことです。
現代のように自家用車を使える時代でも、労力のロスが出ます。


当然、「医療設備の集約化」が求められることになります。
Nさんが「病院みたいにしたい」と思い、その30年後の助産所で実現できたように。


分娩台と分娩室、それは出産を安全に行うために近代産婆の時代から夢見てきたことなのかもしれません。


分娩室について、もう少し続きます。