活字中毒とリーディンググラス

今日はお産の話を離れてのひとり言です。


リーディンググラスって?
あれ、あれですよ、老眼鏡。
老眼鏡どころかシニアグラスとも呼びたくない気持ちが、まだあるこの頃。


数年ぐらい前までは本当に視力だけは誇れるものがあって、近くの超細かい字でも遠くの風景の小さいものまでよく見えていました。


眼鏡とは無縁で、むしろ眼鏡をかけている方々をおしゃれでうらやましく思っていました。


私は一生、このまま老眼にもならず視力がよいまま生きていけると、なんだか根拠のない自信と万能感がありました。


でも神はちゃんと平等に老いを与えてくれるものですね。(当たり前)
数年ぐらい前から、夜、部屋の中で本を読むと少しぼんやりするようになってきました。
でも日常にはそれほど困ることもなかったし、活字中毒だった私は平均して1週間に数冊以上の本を読んでいました。


自転車で行ける範囲の数箇所の図書館に代わる代わる行くのが楽しみでした。
時には都立図書館とか、専門書が多いところにも行きました。
図書館ではあっという間に2〜3時間は過ぎていきます。


いろいろなジャンルの本を貸し出し上限の10冊まで選んで、わくわくと帰宅して時間があると読み続けていました。


そんな私が、あの震災後からぱたりと図書館通いをしなくなりました。
ひとつは震災前に借りていた本を無事に返したあと、いつまた余震でどうなるかわからない生活の中で図書館にいく気持ちの余裕がなくなったことがあります。


また、以前は読書の時間が多かったのでテレビをほとんど観ない生活でした。
観るといえば、競泳の日本選手権や世界水泳を録画したり、ちい散歩とかぐらいでした。
震災後は、自宅にいる間はNHKをずっとつけっぱなしにしている生活になりました。


活字中毒だった私なのに、テレビを観る時間の比重が増えた時期に、ちょうど老眼も少し進み本を読むことが苦痛になってきました。
ベッドの中で寝転んで本を読むのが至福の時間だったのですが、焦点距離をあわせるのに本を離さないと読みにくくなりました。
そして、とうとう両手を思いっきり延ばして本を支えるだけでは距離が足りなくなって(!)やめたのでした。
まだまだ老眼鏡なんて買うもんか!と抵抗していたのですね。


でも自分が物が見えにくくなって、はじめて視力に問題があることの不便さを知りました。
また世の中には細かい字の表示がとても多く、きっとしっかり読めていない人もたくさんいるのだろうと思います。
いろいろな製品の内容表示や説明書きの字の大きさは、あれは視力の良い人向けあるいは若い人向けだということに気づきました。
ついこの間までは難なく読めていたのですから、私も。


老眼鏡を買ってみて、なんと便利だろうと実感しました。
老眼鏡だろうが、シニアグラスだろうがリーディンググラスだろうが、早く買えば活字中毒のままでいられたかもしれないと思います。


でもテレビをよく観るようになって、案外いい番組もあることを知ったのは収穫でした。
笑ったり、ほろりと泣かされたり、捨てたものではないと再発見でした。
特に街歩きのような番組で、そこに住む人の何気ない一言にほろりときます。


これも老いゆえの変化なのだろうと思います。
だとしたら、老いもまた豊かなものかもしれません。


リーディンググラスもなじんできたし、そろそろ図書館通いを復活させようかなと思うこの頃です。