いつか三陸鉄道に乗ってリアス海岸を見たいと思った理由の一つに、田老の防潮堤がありました。
2011年3月11日、本棚を押さえながら田老の堤防のことも思い出していたのは、東日本大震災以前に吉村昭氏の「三陸海岸大津波」を読んでいたからでした。
いつ頃この本に出会ったのか記憶になく、今は手元にないので詳細を確認できないのですが、読んだ当時は海が見えなくなるほどの高いコンクリート製の堤防を造ったことがなんだか非現実的な話のような印象を受けたのでした。
どこか何かが自分の中に引っかかっていて、それ以来、田老地域の記事があると読んでいました。
防災の研究をされている大学の先生がたも関わっていたと記憶していました。
堤防と田老の街はどうだったのだろうと震災後のニュースを追っていると、あの堤防が破壊されたニュースがありました。
宮古市のホームページに以下のように書かれています。
1896年(明治29年)の明治三陸大津波と1933年(昭和8年)の三陸大津波により壊滅的な被害を受けた田老地区(旧田老町)。
これを受け、防潮堤の整備は昭和三陸大津波の翌年(昭和9年)から始まり昭和54年に整備が完了しました。
町全体を囲む総延長2,433メートル、高さ10メートルの長大な防潮堤はかつて「万里の長城」と呼ばれていました。
また、旧田老町では、定期的に津波の避難訓練が行われたり、避難場所・避難経路を示す表示が多く設置されるなど津波に対する取り組みがなされていました。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による津波は、この高さ10メートルの田老防潮堤を超え、田老の町を飲み込み、甚大な被害を及ぼしました。
「田老の防潮堤」では、東日本大震災により甚大な被害を受けた田老地区の現状や当時の状況を「学ぶ防災ガイド」により知ることができます。
私が非現実的のように感じた高さをはるかに越える津波が現実になったのでした。
*新田老駅ができた*
今回、三陸鉄道に乗る計画を立ててから地図を眺めていて、「新田老駅」が田老駅の近くにあることに気づきました。
その間はわずか300mほどです。
以前はなかった駅名のような気がしましたが、この300mは高台への道だろうと想像がつきました。
三陸鉄道のホームページの駅紹介を読むと、「2020年5月18日に三陸鉄道リアス線41番目の駅として開業」とありました。
さて、この新田老駅の直前から全てを目に焼き付けるべく、車窓に集中しました。
新田老、堤防の上、学生
田老、山あいへ、田老川沿い、美しい!
写真も撮らず、メモを取るのも惜しい時間でした。
東日本大震災で破壊された堤防も残り、その向こうにさらに高い白い防潮堤ができています。
見学に訪れている学生さんたちの姿が見えました。
田老の町を歩きたい、そう思って計画を何度も何度も考え直して見ましたが、今回の2泊3日ではどうやっても無理です。
今回はいつかの日のための予習ということで、車窓からの散歩になりました。
これだけの被害に、もうその地域には住めないのではないかと思う状況でもまたそこでの暮らしが続いていく。
吉村昭氏もそのあたりに何か考えることがあったのではないかと、勝手に想像しています。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。