先月、玉川上水について書いたあと、小平市を通る都市計画道路建設のために玉川上水の一部が道路になることの是非を問う住民投票についてのニュースを聞きました。
これまでも、玉川上水の他の地域でも同様の反対運動があったと記憶しています。
そこに住み、玉川上水が生活の風景の一部となっている方々のお気持ちは痛いようにわかります。
たとえそこに流れているのが江戸時代とはまったく異なる汚水の再生水であったとしても、毎日見る川べりの1本1本の木々や草に特別な想いがあることと思います。
都市計画道路だけでなく、再開発のために見慣れた風景がどんどんとなくなり、あちこちで住宅地に植えられていた大きな木が切り倒される光景は、身を引き裂かれるような感情に襲われることがあります。
そして新しい道路や街並みができると、わずか1〜2年前にあの場所で生活していた人たちの記憶もなくなってしまうほど風景ががらりと変っていきます。
そこに生きていた証がいとも簡単に消されていくこと、それもこうした計画への反対運動の動機になるのかもしれません。
<都市計画道路>
都市計画道路について、コトバンクでは以下のように説明しています。
自治体がまちの将来を10年単位で計画する際に都市計画法に基づいて決定され、市町村道から国道までが対象となる。住宅地と交通機関、公園をつなぐなど、都市の骨格となる道路。急速にまちづくりが進められた高度経済成長期に多くの計画が決定されてきた。区域内は建築物に一定の制約がかかる。
今回の小平市の住民投票運動のサイトを読むと、50年前にすでに計画が立てられていたようです。
50年前の都内というのは、23区内でもまだまだ田畑があちこちに残っていました。
私の知人がその頃から23区内の私鉄沿線に住んでいたのですが、駅から駅の間はサツマ芋畑だったので家からも駅が見えたと聞いたこともあります。
50年前の小平付近であれば、農地が広がっていたことでしょう。
その後、急速に人口が増えて住宅地が広がっていったのだと思います。
狭く曲がりくねった道路に、車も自転車も人も集中していきました。
私の近所でもその50年前に立てられた計画によって、道路の拡幅工事が行われていました。
1件また1件と移転して、用地が確保されるまでにおよそ40年ほど経過していました。
全線の拡幅工事が終了したのは、つい最近のことです。
今は、あの場所にどのような家が建っていたのか、どんな方が生活していたのかも思い出せません。
ただ、歩道も広くなったので、高齢者が増えてきたその地域ではお年寄りがゆっくりと安心して歩けるようになりました。
バスの運転手さんも以前のように狭い道を車や人を避けながら走らなくて済むようになりました。
住み慣れた地域から移転する、思い入れのある土地を離れることは並大抵のことではないことでしょう。
その犠牲と引き換えに、都市というのはまた住みやすい街並みという得難い遺産を手に入れたということかもしれません。
<玉川上水の自然、50年の移り変わり>
うっそうとした玉川上水沿いの森ですが、東京都の玉川上水の歴史を読むと、案外その歴史は短いことがわかります。
「5.淀橋浄水場の廃止と現在の玉川上水」を見ると、「昭和30年代初頭の玉川上水と五日市街道」の写真があります。
玉川上水沿いの木はまだまばらで背丈もそれほど大きくありません。
ちょうど道路計画が立てられたころと時を同じくして、成長し、そして伐採されることになったのでしょうか。
都市のなかの「自然豊か」と思う場所は、多くがこうして人工的に作られた自然であるということなのかもしれません。
ところで、甲州街道や五日市街道など都内の旧道付近には、大きな街路樹が植えられている部分があって、交通量の多い道路にいながらも心が和みます。
ただ、その付近に住む方には「木を守りたい」という思いと、「落ち葉などの管理が大変」という思いが交錯しているようです。
自然と人工的な自然、そのあいだを行ったりきたりしながら、これからも都市部の風景は変化し続けるのでしょう。
50年先、100年先の風景はどんな風に変っているのでしょうか。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。