水のあれこれ 161 残堀川

狭山池公園から残堀川が始まり、ゆったりと歩ける遊歩道が整備されていました。

 

途中、車道と交差するところでは、反対側へと渡るための横断歩道が少し離れていることが多く、そのまま突っ切って渡ろうとすると、そばに交番があって中の警察の方と目が合ってしまうというトラップが2ヶ所ほどありました。あっと思って、仕方なく迂回してまた遊歩道を歩き続けました。

ほんと、歩行者にはあまり優しくない日本の道路ですからね。

 

公園からすぐのところは、水の流れのない水たまりのように見えた残堀川ですが、途中、狭山丘陵の方からの小さな水路があって、水の音が聞こえてきます。次第に、水量が増えていきました。

周辺には、畑や茶畑が広がる場所も残っています。

羽村からの導水路の続きに近づく阿豆佐味通りまで、残堀川に沿って歩きました。

 

*残堀川の歴史*

 

狭山池公園のあたりをいつか訪ねようと思って地図をなんどもながめていた頃、そこから流れる川の名前が残堀川であることに、「趣のない名前」だと思っていました。ごめんなさい。

 

今回、はじめてその歴史を読みました。

元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。

 

1654年(承応3年)玉川上水開通の際繋げられ、さらに孤立していた狭山池まで堀割で繋げた。その後1893年明治41年)にかけて玉川上水の下を通って立川市富士見町へ至る工事が施され、上水から切り離された。富士見町から先は段丘沿いに流れていた根川(立川市)に注いでいた。

 

そして1963年(昭和38年)氾濫対策として、玉川上水を越える形にかえ、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。

 

しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流のほとんど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。

 

理由としては、水源である狭山池自体の流出量現象に加えて、都市化による雨水の浸透の減少、下水道の普及による河川への排水の減少なども原因の一因ではないかと考えられるが、一定時期(短期的)を境に河川の瀬切れが起こったこと(瀬切れが起こった時期に残堀川流域の地域に大きな都市化=舗装インフラの激増や下水インフラの激増などは特に顕著に無かった為)を考慮すると、表層(ローム層)を流れていた河道を、河川改修工事により礫層まで掘り下げたため、伏流(地下を流れる)しやすくなった工事のずさんさが、一番の原因だと考えられる。

上流部は2000年代前半までに直線化されたり拡幅され整備されている。

その後の2007年6月東京都は不透水層の設置等の瀬切れ対策を含んだ河川整備計画を発表した。 

 

玉川上水開通の際繋げられ」という一言に、どれだけの人が関わり、どのようなこの地域の変化が起きたのだろうと、その行間が気になりますね。

 

また、明治時代にはその玉川上水下を通す工事で上水から切り離され、さらに私が幼児の頃には氾濫対策で玉川上水の上を越える形になったというあたり、もっと具体的に知りたいことが増えていきます。

 

一時期瀬切れを起こしていたとは、今回、真冬の時期でも水が豊富に流れていた様子からは想像ができませんね。

「瀬切れ対策」とはどんな工事なのでしょう。

 

どんな小さな川にも、どんな川の名前にも、語り尽くせないほどの歴史がある。

 

今度は、残堀川の中流から多摩川への合流部分まで歩いてみたいと思います。

 

 

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